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NHK ETV特集 原発事故への道程(前後編)文字起こし

facebookのあるページより 2011.10.3
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書き起こし ETV特集 シリーズ 原発事故への道程 前編 置き去りにされた慎重論 2011年9月18日(日) 夜10時

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福島第一原子力発電所の記録映画です。1964年に始まった建設用地の調査から運転開始に至るまでの6年半が記録されています。福島第一原子力発電所の敷地は、もともと海抜35メートルの台地でした。その高台を海面から10メートルの高さにまで削って建設されました。その理由のひとつが建設や運転にかかる費用を抑えるためでした。

今年3月、東日本大震災が発生。福島第一原発は高さ13メートルの津波に襲われました。地下に設置されていた非常用のディーゼル発電機が浸水によって故障、全電源喪失に陥り、炉心が溶融する事故が起こりました。国や電力業界は事故に至るまで、どのような安全対策を取ってきたのでしょうか。

日本の原子力政策の裏側を記録した資料を所有している人物がいました。旧通産省の官僚だった伊原義徳さん。原子力行政の中枢を担ってきた人物です。伊原さんが保管していたのは、非公開で行われた会合の録音テープです。会合の参加者は、政治家、官僚、研究者、電力会社やメーカーのOBたち。その100時間に渡る肉声です。そこでは最優先にされるべき原発の安全性が置き去りにされていった歴史が赤裸々に語られていました。

これまで公にされてこなかった証言から、福島原発事故までの歴史的経緯を探る2回シリーズ。前編の今日は原子力発電の黎明期から70年代、大量建設時代を迎えるまでをたどります。

◇原子力政策委員会

旧通産省の官僚だった伊原義典さん。伊原さんは退官後に就任した原子力委員会の委員としてテープに録音されていた会合に参加しました。会の名前は原子力政策委員会。都内の雑居ビルにある会議室で開かれていました。研究会のメンバーは官庁や民間企業、研究機関で、日本の原子力政策を担った人々です。1985〜1994年の9年間、非公開の会合を重ねました。主催者は島村武久。旧通産省で日本初の原子力発電所導入に携わり、その後、総理府で原子力局長などを歴任した官僚です。島村は原子力政策に関わった様々な立場の人物を招き、当事者のみが知る事実や本音を後世に残そうとしました。

伊原義典さん(旧通産省官僚)「会員制でしたけれども、毎月1回、十数名の方がお集まりになって、そこでかつて活躍された方々が講師として1時間ぐらい昔の話をされたと。まぁ昔話の中には、当時は語れなかったけれども、今となってみれば話していいということも含まれてましたから、聴衆にとっては大変興味のある話が多かったと思います。表向きの話はまぁ立派な本になってますけど、その裏にどういうことがあったかというのは、なかなか記録に残らないで散失してしまいますから、それが惜しいというのが島村先生のお考えだったと思いますね」

○島村原子力政策研究会 1985年7月11日

初めての会合が開かれたのは、1985年7月11日でした。話し手の1人として招かれたのは、東京大学名誉教授の茅(かや)誠司。戦前から原子力の研究に携わってきた核物理学の第一人者です。会合は原子力事始めをテーマに、日本の原子力政策の黎明期を振り返ることから始めました。

島村武久(元通産省)「この間先生の米寿のお祝いが開かれたそうで、本当におめでとうございます。お元気で。私が勉強している昭和30年、あるいはそれ以前のあたりになりますと、茅先生の名前が随所に出てくるものですから、その頃の思い出をうかがいたいと思った」

茅誠司(東京大学名誉教授)「昭和27年に講和条約が結ばれた。核分裂の研究をしてもいいとなって原子力の研究が大きな問題となる。その時に私は学術会議の第四部長だった。原子力の問題を取り上げるのは自然科学の分野だから、責任が私にかかってきた」

日本が独立した1952年、茅誠司は日本学術会議に参加していました。茅は戦後いち早く、日本は原子力の研究を再開すべきだと考えていました。茅は大阪大学教授の伏見康治とともに政府に対し、研究再開の申し入れをしようと科学者たちに呼びかけました。

○GHQサイクロトロン破壊 1945年11月

これは終戦直後、GHQが日本の研究所にあった大型の放射線実験装置、サイクロトロンを破壊する様子です。日本の物理学者はこの装置で世界最先端の研究を行っていました。しかし、戦時中、軍部から原爆開発を命じられていたことから、戦後7年間研究は禁じられていたのです。一方、原子力研究の再開に強く反対する物理学者たちもいました。その急先鋒が広島大学教授の三村剛昴(よしたか)です。三村は広島に原爆が落とされたとき、爆心地近くで被曝しました。三村は九死に一生を得たものの、同僚の研究者や教え子の多くを亡くしていました。その経験から三村は原子力の研究が軍事利用されることを強く危惧し、研究を再開すべきでないと茅に真っ向から反対しました。茅誠司は原子力研究の再開をめぐり三村剛昴と意見が真っ二つに分かれたと語っています。

茅誠司(東京大学名誉教授)「原子力ってものにはいろいろ問題がある。研究するにはずいぶん遅れたから、研究に充てるだけの金がいくらかかるか、みんながしっかり調べるだけは調べて、それでやるかどう検討しようと話し合った。彼(三村)は中心(爆心地)からそう遠くない所に住んでいたんですよね。その時の光景を彼が言うんです。目が覚めたら三途の川っていうのはこれかと。どの人もみんな裸でいた。皮が裂けて血が一杯出てる、真っ赤だった。三途の川とはこれかと。彼の提案は、アメリカとソ連の仲が平和になった時に初めて原子力の研究はすべき、それより以前にすべきではないというのが彼の結論だった。その男にすっかり一座はやられたってわけ。それからいろいろな議論が起こってね、結局、茅の提案は取り下げろとなった。こんなに大勢の人が取り下げてくれと言うので、取り下げたんです」

○1951年 アメリカ核実験

○1949年8月 ソビエト核実験

茅と三村の論争が行われた頃、アメリカとソビエトは東西冷戦に突入していました。米ソ両国の原子力研究は、強力な核兵器の開発を主な目的として進められていたのです。茅誠司の提案した原子力研究の再開は学術会議で圧倒的大差から反対され却下、時期尚早ということで継続議論となりました。同じ頃、研究者とは別の立場から原子力に注目していた人々がいました。島村研究会では日本で最も早く原子力の導入に向けて動き出した1人の人物を取り上げています。

○島村原子力政策研究会 1988年3月18日

森一久(当時 中央公論社)「昭和23年12月の終わりに後藤文夫さんが巣鴨拘置所から出てきた。戦犯解除になって巣鴨から出てきたので迎えに行ったら、大変だ、アメリカでは原爆で発電をしているそうだと、日本はエネルギー獲得で戦争をやったから日本も考えなければいけないのではないか、英語の新聞にそう書いてあったと言ったのが原子力との初めての出会いだと。あの方は英語も非常に勉強していたし、巣鴨拘置所で英語新聞を読んで気付くらい、むこうの新聞にはかなり出ていたと思う」

会合で語られていた人物、後藤文夫。戦時中、東条内閣の国務大臣を務めた政治家です。戦後A級戦犯となり、巣鴨拘置所に拘留されていました。後藤は、戦後日本の主力エネルギーとして、いち早く原子力に注目しました。日本が独立した1952年、電力経済研究所を設立、原子力発電の調査を始めました。

○㈶電力経済研究所設立 1952年10月

後藤について証言した森一久は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の門下生。当時、科学雑誌で原子力分野を担当していました。森は政財界が研究者に先んじて原子力産業に乗り出すことに反発し、後藤に抗議しました。

森一久(当時 中央公論社)「財団法人電力経済研究所が昭和28年6月に、日本で原子力平和利用を大いに推進すべきと、建議書みたいなものを出したのが新聞に出て、私ども、くちばしの黄色いガキですから、実は抗議に行ったんです。けしからんと。財界の人が原子力を儲けのためにするなんてとんでもないと。まぁ28歳ですから。行ってみたら薄暗い場所で、丸の内の洋館、赤レンガの建物が並んでましたね。新聞で見たことのある後藤さんが論語だか孟子だか読んでるわけですよ。お前たちよく来たって、俺たちは戦犯で日本をめちゃくちゃにしちゃったので、原子力が日本の復興に役立つならと、そんなケチなことは考えていないと。その辺がとっかかりとなって、外で文句を言ってないで中に入ってこいと。ミイラ取りがミイラになっていくわけ」

この後、森は原子物理学の専門知識を買われ、後藤のもとで研究者と政財界のパイプ役を果たしていくことになります。後藤が原子力に注目した1950年代初め、日本は深刻な電力不足に陥っていました。節電のため計画停電が度々実施されていました。戦後復興の中で伸び続ける電力需要に発電量が追い付かなかったのです。一刻も早く安定した電力を、それが国民の願いでした。各電力会社はアメリカから最新鋭の火力発電所を導入し、不足する電力を補おうとします。発電の主力は水力でした。しかし、夏場の渇水期には発電量が落ち込む上、大型のダムを造れる場所も限られてきました。こうした中、水力・火力に代わる新たな電力供給源として原子力発電への期待が高まっていました。

○ソ連 オブニンスク原発建設開始 1951年9月

世界で原子力発電の先陣を切っていたのはソビエトです。第二次世界大戦後、世界で初の原発建設に着手。原子力の平和利用を掲げ、東側陣営の拡大を図ろうとしました。ソビエトの平和利用攻勢に危機感を抱いたアメリカは、世界に向けてメッセージを発します。

○アイゼンハワー「平和のための原子力」演説 1953年12月

「私は次のことを提案したい。原子力技術を持つ各政府は蓄えているウランなどの核物質を国際的な原子力機関を創設して平和のために使う方法を考えよう」

アイゼンハワー大統領による「平和のための原子力」演説です。アメリカは世界に向けて原子力の平和利用を打ち出し、ソビエトに対抗しようとしたのです。

この動きに即座に反応したのが政治家たちでした。1954年2月、改進党の衆議院議員、齋藤憲三を中心に、自由党、日本自由党の議員が超党派で集まりました。目的は国内に原子炉を建造する予算案の作成です。メンバーの1人に自由党衆議院議員の前田正男がいました。

○超党派議員 原子力予算案作成 1954年2月

前田正男(自由党衆議院議員)「原子力の時代、放射線の時代が来るからやらねばいけないと。できたら予算をつけるとか何とかしようと言っていたのは(改進党の)齋藤君です。昭和29年の予算の時に予算の補正でやることになって、特に中曽根さん、斉藤憲三さんが中心になって原子力関係の予算を作られた」

○原子力予算案国会提出 1954年3月

アイゼンハワーの国連演説からわずか3ヶ月後、齋藤憲三、中曽根康弘らを中心に作成された2億6000万円の原子力予算案が国会に提出されました。当時、通産省で科学技術の調査をしていた堀純夫によると、予算案提出は政治家が研究者の議論に見切りをつけた結果だと言います。

堀純夫(元通産省)「一部の人間が原子力の研究をやるかやらないかで議論したのは確かです。議論の内容は、やるべきだという人間とやるべきじゃないという人間と、やりようによってはやったらいいという、賛否中立と申しますか、3論に分かれて小田原評定を繰り返した。小田原評定で時間だけ食っていたので、中曽根さんがやきもきして、そういう現象、まさにその現象だった」

原子力研究の再開には慎重な議論が必要だと考えていた研究者たちは突然の予算案に愕然とします。研究再開を強く望んでいた1人、大阪大学教授の伏見康治。伏見でさえも政治主導の予算案にショックを受けたことを研究会で語っています。

伏見康治(大阪大学教授)「朝、目を覚まして新聞を見たら中曽根予算なんて書いてある。びっくり仰天してね。学術会議で原子力問題を議論している時に非常に思い上がった考えといえばそうだが、原子物理学者がイニシアティブ(主導権)を取らなければ物事が動くはずがないという大前提をみなさん持っていた。アメリカのマンハッタン・プロジェクトは原子物理学者のイニシアティブで始まった。それが頭にある、日本の原子核物理学者が始めなければ始まらないとの前提があった。研究開発から原子爆弾を作るまで全段階に原子核物理学者に責任があって、原子核物理学者さえ動かなければ一切動かないという前提でやっていたから、中曽根(原子力)予算が非常なショックになったわけです」

○原子力予算案成立 1954年4月

予算案は提出から1ヶ月後に成立。日本の原子力政策は研究者たちの議論を飛び越し、政治主導でスタートを切っていったのです。

初めての原子力予算を使い道を決めるよう任されたのが、通産省の官僚たちでした。伊原義徳さんは予算配分の決定に携わった1人です。当時、伊原さんを含め通産省の職員は、ほとんどが原子力の専門知識を持っておらず、慌てて勉強を始めたといいます。

伊原義典さん(旧通産省官僚)「当時は、役所の立場は、日本学術会議で原子力の研究をどういうふうに再開するかという議論をしているんだから、その結論が出るまで待っているという立場だったんですね。自分で動いて仕事を始めようという発想はなかったわけです。突如として天からお金が降ってきたわけですから、最初は戸惑ったのは事実なんですね」

○島村原子力政策研究会 1988年12月21日

堀純夫(元通産省)「予算が成立しますと、その仕事を業務としてやらなければならない立場になった。当時、通産省には原子力の知識というものはございませんでした」

島村武久(元通産省)「その時、通産省は逃げた。あなたが言うように、通産省全体としては原子力に取り組む意欲がその頃全く無かった。今の通産省の悪口を言うわけではないけれど、ちょっと抜かった所があった」

堀純夫(元通産省)「見通しを誤った」

島村武久(元通産省)「尊敬すべき我が先輩がちょっと抜かっていたと」

堀純夫(元通産省)「その後のことはみなさんご存じと思います。2億3500万円つきましたが、準備段階で大半の金を余してしまった」

島村武久(元通産省)「これをどうやっていいのか。役者側から出したのなら根拠があるが、昭和29年度で使ったのが6000万だった記憶がある。あとみんなキャリーオーバー(持ち越し)してしまった」

その後、原子力予算は一気に急増。4年後の1958年度には30倍を超える77億円にまで達しています。予算の使い道がはっきりしないまま、額だけが増えていったといいます。

○島村原子力政策研究会 1988年5月31日

村田浩(元通産省)「19億くらいの予算を積み上げてきた。原研(日本原子力研究所)の方から。ところがそれじゃ少ないんじゃないか、50億円くらい要求しろという話で。ところがどう積み上げても50億円にならない。結局、36億何千万円で通っている。ほとんど満杯で通っているんですよ」

○ビキニ水爆実験 1954年3月

原子力導入が動き出したその年、日本を震撼させる事件が起こりました。マグロ漁船、第五福竜丸の乗組員たちは太平洋上で実験による放射性降下物を浴び、被曝。白血球の減少や髪の毛が抜けるなどの放射線障害に襲われました。事件の半年後、乗組員の久保山愛吉さんが亡くなりました。太平洋で獲れたマグロからは放射能が検出され、日本中がパニックに陥りました。事件は全国的な反核運動へと発展します。平和利用を訴えながら核実験を続けていたアメリカに対し反感が高まっていました。この時、経済界から今後の日本の原子力政策に大きな影響を及ぼす1人の人物が現れました。

○島村原子力政策研究会 1985年7月11日

伏見康治(当時 大阪大学教授)「講演会を聞いていたら、私は職業野球をやった、民間テレビもやった、次は原子力だという講演を聞かされたな」

元日本原子力発電役員「中身は分からなくてもやる必要があるんだと国会答弁しておられましたよ」

島村研究会で語られていた人物、正力松太郎。戦前、内務官僚から読売新聞の経営者となり、戦後は日本テレビの社長もしていました。正力が恐れたのは、ビキニ事件で巻き起こった反米反核感情が共産主義の高まりにつながることでした。その対抗策として正力が取った行動。それは原子力平和利用の一大キャンペーンを張ることでした。アドバイスしたのは秘書の柴田秀利でした。

柴田秀利「原子力はもろ刃の剣だ。原爆反対を潰すには原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、希望を与える他はない。日本には“毒は毒をもって制する”という諺がある」

この時、柴田がアメリカの諜報機関に送った極秘文書が残されていました。そこには柴田と正力による具体的な提案が書かれていました。「最も効果的な方法は、原子力の著名な科学者を来日させることである。正力松太郎は彼の新聞とテレビネットワークを通じて最大限に啓蒙プロパガンダを行う用意がある」

○原子力平和利用使節団来日 1955年5月

○原子力平和利用大講演会

東京、日比谷公会堂の前にできた長蛇の列。来日した平和利用使節団の講演を聞きに来た人々です。団長のジョン・ホプキンスは原子力の平和利用が無限の未来を約束すると演説しました。実は、ホプキンスの本当の肩書は、アメリカを代表する原子炉メーカー、ゼネラル・ダイナミックス社の社長でした。

読売新聞は原子力の将来性を伝える記事を連載、電力不足を解消するだけでなく、水力・火力より低いコストで発電できるため、電気料金は格段に安くなると紹介しています。

○原子力平和利用博覧会 1955年11月

正力はキャンペーンの決め手としてアメリカ情報局との共催で原子力平和利用博覧会を開催しました。東京で始まった博覧会は1年かけて全国11ヶ所を巡回、およそ300万人が訪れました。

○広島 原子力平和利用博覧会 1956年6月

被曝地広島では平和記念資料館が会場となりました。被曝者の遺品や写真を撤去して原子炉の模型が展示されました。

島村武久ら原子力政策を担当する官僚たちは、博覧会が世論を変えていく様に目を見張りました。

村田浩(元通産省)「正力さんが力を入れて、アメリカからいろいろなものを持ってきて、原子力の平和利用博覧会というものをやって、多大の一般日本国民に感銘を与えたものを初めて開いた。原子炉の模型なんか出てましたよ」

島村武久(元通産省)「平和博というものが相当なものであったのは確かだろうな。ずいぶんPRになったことは確かでね。時あたかも久保山さん事件(ビキニ事件)が起こっているわけで。杉並の主婦から出た反原子力・反核運動もずいぶん広がり始めている頃に、昭和31年にいあれだけ華々しく原子力がスタートできたというのは、国会議員のあれ(行動)だけじゃなしに、それ以前に耕したものが相当生きてると思う」

村田浩(元通産省)「我々役所サイドにいて、あまり大して評価も関心も読売ほどは持たなかったけれど、実質的にはかなり役に立っているという気がしたんですよね」

広島、長崎、そしてビキニ。3度の被曝を経験した国民はいかなる心理で原子力の平和利用を受け入れたのでしょうか。広島で原水爆禁止運動を立ち上げた被曝者、森瀧市郎。初めは、平和記念資料館が博覧会に使われることに強く抗議していました。しかし、森瀧は博覧会の後、原水爆禁止世界大会で原子力の平和利用を支持すると宣言しました。

森瀧市郎「破滅と死滅の方向に行くおそれのある原子力を人類の幸福と繁栄の方向に向かわせることこそが私たちの生きる唯一の願いであります」

森瀧の次女、春子さんは、博覧会の後、考えを改めた父や多くの被爆者を見ていました。

森瀧春子さん「アメリカの文化センターが広島に設置されて、ソフトな形で広島市民に、いわゆる新しい文化をもたらすという形で浸透してきた頃ですし、悲惨な目に遭っているからこそ、原子力が人類の未来に平和と繁栄をもたらすのではないかという期待があったから、広島だけじゃなくて、全国を順次回って、たくさんの人が見て、一大ブームを巻き起こして、原子力の平和利用に対する夢というものを、そういう意識を、洗脳されたという言い方の方がいいかもわからないですけど」

広島で被曝した物理学者の三村剛昴(よしたか)。原子力研究の再開に強く反対してきた三村も、キャンペーンの後、沈黙していきます。研究者の間では、日本の科学技術の進歩のためには積極的に研究を進めていくべきという意見が主流に変わりました。政財界の動きに研究者が合流したことで、日本の原子力導入の動きは実現に向け加速していきます。

正力松太郎は政治家に転身。衆議院議員に発当選すると、原子力担当大臣に就任しました。正力は宣言します。“5年以内に実用的な原子力発電を始める”

○原子力委員会

正力は原発建設の第一歩として原子力委員会委員長に就任しました。学術界から研究者の代表として湯川秀樹を委員に招き入れました。しかし、就任早々、湯川と正力は正面から対立します。湯川は、原子力発電の実現は急いではならず、まずは基礎研究から始めるべきだと主張しました。これに対し、早期実現を急ぐ正力は、外国から開発済みの原子炉を輸入すべきだとして、湯川の主張を退けました。森一久は恩師の湯川から突然呼び出されました。

森一久「私の家に湯川さんから電話がきた、ちょっと来いと。原子力委員を辞めようと思うから出てこいと。福田家(宿泊先)に呼び出されたんです。(正力の)声明を読んで頭に来て、基礎研究なんてしなくていいと。おまえたちが入れと言うから入ったが、もう辞めると。いくら何でも今日入って一日目に辞めるってことはないでしょうと言ってなだめてね」

結局、湯川は正力の考えとは相容れず、わずか1年で原子力委員を辞任しました。

伏見康治(当時 大阪大学教授)「湯川さんが原子力委員会を辞めたのは何が原因だったんですか」

島村武久(元通産省)「私なりに解釈すれば、学者らしい生活と相容れなかったということじゃないですか」

伏見康治(当時 大阪大学教授)「あまり具体的な何かということよりは」

島村武久(元通産省)「とにかく湯川さんは毎日来ては嫌になられた、心配事が多すぎて。湯川さんは何でも原子力のことはご存知と人は思っていたかもしれないけど、(原子炉については)何のことやら先生自体わけがわからんのです、良いのか悪いのか。とにかく責任が重いのにわからないという点があった。普通の人だったら、良きに計らえでいいかもしれないが、それを心配された。だから合わないということだよ」

湯川の言葉です。「情報の急変が今後も予想されるが故に、発電炉に関してはあわててはいけない。我が国には“急がば回れ”という言葉がある。原子力の場合にはこの言葉がぴったりとあてはまる」

湯川の門下生の1人、元東京大学原子核研究所教授の藤本陽一さん。湯川の辞任をきっかけに、国の原子力政策と距離を置く研究者が相次ぐようになったといいます。

藤本陽一(元東京大学原子核研究所教授)「湯川さんのアイデアを活かそうとかいう気持ちはほとんどなかったですね。ただ、政府が作ったものに湯川さんの署名が欲しいだけで、それで湯川さんはずいぶん憤慨されて、結局、辞めてしまう。専門家の意見を重要視しなければならない分野であるにも関わらず、そういう理解が政府になかった」

時間のかかる基礎からの研究よりも、早期の実現。その掛け声のもと、科学的な観点を軽視する体制が作られ、原子炉導入は進められていくことになりました。科学者たちと入れ替わり、原発建設を目指す流れの中に新たな集団が続々と参入してきました。

島村武久(元通産省)「私が色々勉強したのでは、商社の動きというのは無視できない気がする。商社、商社が先に動いているんですよ。商社が、どこが火をつけてね、これ本当に面白い現象なんですよ。何ヶ月かの間に5グループが揃った。三井、三菱、住友あたりが、まだ技術導入なんてとことまでいかないが、とにかく商社が先を行った」

佐々木元増(元住友原子力工業)「自分でやりましたけれど、持ち込んだのは商社、商社を通じてやってます」

海外からの技術導入に名乗りを上げたのは、旧財閥系の企業でした。先頭を切ったのが三菱商事です。元三菱商事の商社マン、浮田禮彦(のりひこ)。島村研究会に招かれた浮田は、三菱商事が原子力ビジネスに参入したきっかけについて語っています。

島村武久(元通産省)「三菱の場合は、いったい原子力に誰が関心を持ち、どんな経緯があったのだろうか。そういうことも伺いたいわけなんです。役所のことだとかは記録に残っているものもありますけど、研究成果などは文献で分かるけれども、原子力産業のことになると全然残ってないですね。いま思い出される範囲でいいですから自由にお願します」

浮田禮彦(元三菱商事)「私は商社出身なんだけれども、三菱商事はご承知の通り、戦後(三井)物産と相並んで解散(財閥解体)を食っちゃったわけですね。昭和22年です。力がぐーっと弱くなったわけです。その日暮らしで、毎日どうやって暮らすかと。もう本当にいつ会社が破産するか心配な時期もずいぶんありました。その日暮らしになっていたわけです。要するに(三菱)商事としては世界的な視野で考える力を失い、その日暮らしになっていた。そこへ原子力の国家予算が昭和29年につき、新聞の論調や学界の方も、原子力ムードが追々できて、相当強い刺激になって、三菱グループは原子力について勉強しようじゃないかという機運が生まれた」

島村研究会は浮田に続いて住友グループの元重役、佐々木元増(げんぞう)を招いています。

佐々木元増(元住友原子力工業)「臨界実験装置ってなんじゃ?という知識しかないぐらいでして、何をしていいか分からないのが事実。ただ、三井も三菱もやるよと、日立もやるよと、それじゃあ我々もやるかと。バスに乗り遅れるなというのが正直なところ。何かやらなきゃいけないんじゃないかという形です」

企業にとって原子力の導入は大きなビジネスチャンスでした。メーカー、建設会社、銀行、わずか1年で日本の主要企業が雪崩を打って参入してきました。こうした財界の動きと密接に関わっていたのが正力松太郎でした。正力は政界と財界の結束を図るため、ある準備を進めていました。

○島村原子力政策研究会 1988年3月18日

島村武久(元通産省)「私が総理官邸にいた記憶だと、見たことない爺さんがひょこひょこやって来て、正力さんの部屋にいかれて、その後、私が呼ばれたのは確かなんです。総理官邸に財界人を集めろと。名簿を作って持って行くと正力さんが見て、あれはいい、あれも呼ぶと。下の方はどうでもいい、正力さんは、大物でないと。次々口説いて経団連会長の石川一郎を筆頭に66人を網羅し、4月28日に工業倶楽部で発表式を行い、正力が代表に選ばれたと」

○原子力平和利用懇談会設立 1955年4月

正力が結成したのは、原子力平和利用懇談会。原子炉の早期導入を実現させるための組織でした。懇談会には日本の主要企業が名を連ねました。正力を中心に政財界が一体となり、ついに原子炉導入が決定しました。

こうして導入された日本初の原子炉が茨城県東海村にある研究炉JRR−1です。JRR−1は原子力発電所建設に向け、技術の習得や人材育成を目的としてアメリカのメーカーから購入しました。何もかもが未知の技術である原子炉。各企業は一から原子力について学ぶため、多くの社員を出向させました。日立製作所のエンジニア、神原豊三はJRR−1の建設から運転までの総責任を任されました。

島村武久(元通産省)「原子炉を見たことある人も何人かというくらいだった?」

神原豊三(当時 日立製作所)「そうですね、1人もいないんですから。メーカーから何人か、日立からも私を入れて3人くらい出向しました。三菱や東芝からも2〜3人ずつ来られて、相当いろいろな人が集まったんですが、何といったってわずかで、原子炉の方をやるといっても人がいないと。1号炉2号炉は(燃料は)濃縮ウランでと決まって、アメリカから買うことになって、アメリカから買うとしても運転員がいない、建設する人もいない」

○JRR−1運転開始 1957年8月

1957年8月、JRR−1は運転を開始します。しかし、運転開始直後からトラブルが続出、神原たちは手探りで対処に当たらなければなりませんでした。

神原豊三(当時 日立製作所)「コントロール関係は向こう(アメリカ)から指示があってテストしていくわけですが、リレー(制御のための部品)がポンポン パンクするんです。湿気で。ロサンゼルスは乾燥しているからあれで持つんですかねぇ。これじゃあ仕方がない、どうしようか困って、リレーがどうしたと言うと、また遅れます。これ以上遅らせるわけにはいかないから今ならとてもOKしてくれないですが、神田へ行って、ジャンク屋で行って、電話用のリレーを買ってこいと。あれは40ボルトだけれども、100ボルトは絶対持つと、日本製のやつは。テストして大丈夫だというので電話用のリレーにどんどん変えていった。今は規制も多いし、なかなかあんなことはできないと思いますよ」

神原のもとでJRR−1の運転に携わった技術者がいました。当時、大学の工学部を卒業したばかりでJRR−1に飛び込んだ佐藤一男さんです。佐藤さんは運転開始直後、建屋の中に地下水が溢れ出すトラブルに見舞われたことを覚えています。

佐藤一男(元日本原子力研究所理事)「水浸しになりかけたんで、何とかその水を排水しなければいけない。しょうがないわけですよ、地下ですから。で、どうにもならなくて、消防団にお願いして、消防団所有の手押しのポンプを借りたんです。それをジープで引っ張ってきて、運び込んでホースを垂らして、入れ代わり立ち代わりでえっさほいさとポンプをつくわけですな。必死になってポンプをついて、やっと排水に成功して。後で聞いたらね、土地の人は、あそこはね、地下水の水脈のところに建ててるんだと。そんなのは、見渡せば松がいっぱい生えているから、松の背丈を見れば分かるじゃないかと。昔は一面の砂地で、水がないから木はあまり育たない。地下水があるところは木がよく育つから、見渡して木の高さを見れば水が通ってるか分かるはずだと言われて。こんな変な奇談の類は山ほどあったですね」

実際に始めてみると、原子炉は想像以上に扱いにくいものであることが分かってきました。そんな現場の混乱をよそにビジネス界は活気づきます。三菱商事は次の研究炉の契約を獲得しました。

浮田禮彦(元三菱商事)「我々としては、当時は非常に光栄に思いまして。三菱グループとしては鬼の首を取ったというと変だけれども、非常に喜んだわけです。これが非常に強い刺激剤になって、三菱グループ全体として、CP−5(研究炉)を取ったことが非常なジャンプ台になったわけです」

三菱グループはその後も次々に原子炉を納入、日本有数の原子力関連企業となっていきました。浮田禮彦を傍らで支えてきた妻の久子さん。夫から毎日仕事の話を聞かされていました。久子さんはそのうち夫の扱っている商品の特殊性が気になり始めたといいます。

浮田久子さん「主人が今日はどこそこの会社とどんなことがあって、どういう点で違ってどういう点で競争してるとか、いろんな裏話をね、してくれるわけですね。そういうのを聞いていると、放射能、原子力を商売のあれにして怖い、ほんとにいけないって思いましたね」

研究炉での試行錯誤。加熱するビジネス。しかし、安全性をどう確保していくか、主体的に考える存在はまだありませんでした。研究炉を実現させた原子力担当大臣・正力松太郎は、次なる目標として商業用原子力発電所の建設へ動き出しました。

○日本原子力発電株式会社設立 1957年11月

その母体となったのは、日本原子力発電株式会社。原電です。正力の主導のもと、民間出資8割、国の出資2割で設立されました。原電が導入を検討したのはイギリス製の原子炉でした。前の年、世界最大の原子力発電所が運転を開始していました。コールダーホール原発です。その魅力は発電コストの低さでした。正力はコールダーホールと同じ原発を日本に輸入すると決定しました。

○英コールダーホール原発運転開始 1956年10月

○コールダーホール型炉正式購入契約 1959年12月

正力松太郎「ご承知の通り、今度英国からコールダーホール型を入れると。火力の値段に匹敵していく。原子力はこれから段々安くなるのみだ。火力は安くならん」

しかし、官僚たちからはコールダーホール型原発の導入に疑問の声が上がっていました。コストを計算し直してみたところ、コールダーホール型原発は日本では火力発電よりも高くつくことが分かったのです。

伊原義徳さん(元通産省)「イギリスは石炭の値段が非常に高かったんですね。小さな発電所で石炭の値段が高い。日本はアメリカから最新鋭の火力発電所を導入しておりまして、規模もイギリスの3倍くらいの大きさで、非常に能率が良かったんです。従って、日本の火力発電所のコストはコールダーホール型よりはかなり安かったということはあるんです」

イギリスでは炭鉱は国営化されており、石炭の値段が割高でした。そのため、火力発電所の燃料代が日本より高く見積もられていました。これに対し、日本ではアメリカから燃焼効率の高い最新鋭の火力発電所が導入され、発電コストは大幅に下がっていました。あえて原発を導入するメリットはないと伊原さんたち官僚は考えたのです。見積もりの間違いは他にもありました。イギリスでは核燃料が燃えた後にできるプルトニウムを政府が核兵器の材料として買い上げていました。その売り上げが電力会社の利益として計上されていたのです。プルトニウムの売り上げが上乗せされていると知った伊原さんたちは、正力大臣のもとへ説明に向かいました。

伊原義徳さん(元通産省)「日本はそういうことはあり得ないわけです。プルトニウムを政府が買い上げて爆弾を作るのはあり得ないわけですから。そういう面からも勘定が合わないわけですね。それで正力大臣に、イギリスでは採算に乗るでしょうけど日本では採算に乗りませんという結果をあげたんです。そうしましたら正力さんが、木っ端役人は黙っておれ、と言われまして」

しかしその後、より深刻な問題が発覚しました。原子炉の耐震設計がまったくなされていないことが分かったのです。コールダーホール型原発の原子炉は核分裂の速度を抑える減速材に黒鉛のブロックを使っています。この黒鉛のブロックは原子炉の中で積み木のように積み上げるだけの作りになっています。もし地震で崩れれば、炉心溶融を起こす可能性があると指摘されました。当時、東京大学原子核研究所教授だった藤本陽一さん。藤本さんは参考人として招致された国会でコールダーホール型原発は大量の放射能漏れの危険性があると証言しています。

藤本陽一さん「イギリスはあまり地震のない国ですから。グラファイト(黒鉛)を積み上げただけでいい。日本はそういうわけにはいかない。耐震性をどうするかが大問題だった。すぐに飛びつく理由は何もないのではと申し上げた」

指摘を受けた国の原子力委員会は、急遽、科学技術庁に安全対策を検討するよう指示します。検討を任された官僚たちは直ちに研究者を集め、安全対策の立案に乗り出しました。しかし、じっくり検討することより、研究者たちには急いで結論を出すことが求められたといいます。

伊原義徳さん(元通産省)「お役所の偉い方が、泊まり込んでみなさんが研究されてたところにやって来て、つい口を滑らせて、何とか早くやってくれませんかという言い方をしたもんだから、大変先生方が激昂されましてね。俺たちはこんなに真面目にやってるのに、ただ恰好をつければいいというような仕事はできないということで、大変お叱りを受けた記憶があります」

取材スタッフ「正力さんの口から安全第一というような言葉を聞いたことはありましたか?」

伊原義徳さん(元通産省)「いや、それはありません。安全第一ではなくて、進めや進めでしたね」

○島村原子力政策研究会 1990年1月11日

島村武久(元通産省)「コールダーホール型を入れるってなったから、そっちへワーッと行っちゃったでしょう。後のこと考えないうちにみんな既成事実でできあがっちゃった。あのどさくさの間にすべて決まっちゃった。決めたというのではなく決まっちゃった」

佐々木元増(元住友原子力工業)「しょうがないんじゃないですかね、現実、振り返ってみるとね」

○コールダーホール改良型原発運転開始 1966年7月

コールダーホール型原発は3年がかりで耐震対策を施し、ようやく運転開始にこぎつけました。それが東海発電所です。国内初の商業用原子力発電所は送電開始早々、原子炉の緊急停止に見舞われました。その後もさまざまなトラブルが相次ぎ、毎年修繕や点検に1〜6億円もの巨額な費用が必要とされました。東海発電所の総責任者だった原電の社長、一本松珠璣は手記にこう記しています。「日本では原子力の経験が無く、原子力発電も火力のボイラーが原子力に代わったくらいだと考えた。しかし、この両者は多くの異質の要素を持っていることが漸次明らかになった。考えてみると、これだけ複雑な新技術、未知の工学分野に挑んで、しかも利潤を上げるというのは無理であろう」

東海発電所は建設費と修繕費の増加から発電コストが当初の見積もりを大幅に上回ってしまいました。この経験からその後の導入計画ではコストがより厳しく問われることになります。

○島村原子力政策研究会 1994年夏

1994年夏に開かれた島村研究会。話し手に招かれたのは民間電力会社の元副社長でした。

島村武久(元通産省)「私なりに見ていますと、豊田さんに一貫してずっと前から流れている考え方で、他の方にあまり見受けられないのが“経済性”ということなんですね」

豊田正敏(元東京電力副社長)「私もね、原子力発電所のコストを安くしないと、他の電源に太刀打ちできるようにしないといけないということで」

島村武久(元通産省)「豊田さんはそういうお考えで、一貫して経済性を頭の隅に置いておられまして」

豊田正敏(元東京電力副社長)「隅じゃないですよ、真ん中です(笑)」

島村研究会に参加した元東京電力副社長・豊田正敏さんです。豊田さんは東海発電所に出向し、設計から建設まで携わっていました。会社からは原発導入に備え経験を積んでおくようにと命じられていました。

豊田正敏(元東京電力副社長)「日本のメーカーなんか全然頼りにならなかったんだから、当時は。だからずいぶん勉強材料にはなったんですよ」

1960年代初め、東京電力は自社で原発を保有する計画を立てていました。しかし、東海発電所の実態を目の当たりにし、建設には踏み出していませんでした。一方、国は原発を大幅に増やすことを目指していました。

○1961年「原子力長期計画」

1961年に発表した長期計画。今後20年間で新たに増やす発電量のうち10%を原発で賄うよう定めています。当時、高度経済成長期を迎えていた日本では毎年10%の勢いで電力需要が増え続けていました。こうした中、国は原発を本格的に普及させることにしたのです。原発導入に積極的な日本政府と慎重な電力会社。両者にギャップが存在する中、アメリカで新たな形式の原発が開発されます。軽水炉型原発です。出力が大きく、建設費も低額なため、日本の電力会社も注目しました。

○アメリカ 高出力の「軽水炉」型原発 運転開始 1960年7月

豊田正敏(元東京電力副社長)「コールダーホール型が最終的に日本の電力会社が採用するものだとは、その当時思ってはいなかった。いずれ軽水炉の時代が来るだろうとは思っていた」

日本の各電力会社はアメリカの原子炉メーカーが主催する現地ツアーにこぞって社員を派遣しました。ツアーに参加した関西電力の板倉哲郎さんは、アメリカのメーカーの歓迎ぶりを覚えています。

板倉哲郎さん(当時 関西電力)「僕らのことをポテンシャルカスタマー。潜在的顧客になり得る人だということで一生懸命サービスしたんですよ。各電力会社から十何人、東京電力から3名、関西電力から2名とか。東北電力からは当時若かった八島(俊章)さん、社長にも会長にもなった人ですね。そういう人たちがサンフランシスコに集まって。各電力会社の首脳はできたら早く原子力をやりたいという雰囲気になっていたんでしょうね」

“ターン・キー契約”

日本の電力会社を最も引き付けたのは、この時、アメリカのメーカー側が提示してきた契約放送、ターン・キー契約でした。ターン・キー契約とは、建設から試運転まで全責任をメーカーが一括して引き受けてくれるという契約です。電力会社はすべてをメーカーに任せ、受け取った原発のキーを捻って運転を、始めるだけでいいというわけです。

○東電、GE社とターン・キー契約締結 1966年12月

東京電力は福島に計画した初の原発をアメリカのゼネラル・エレクトリック社、GEからターン・キー契約で購入することにしました。建設にあたりGEと打ち合わせをする東京電力の社員。そこに豊田正敏さんも参加していました。

豊田正敏(元東京電力副社長)「決め手は経済性だと。スペインから発注を受けていたんでね。それと同じものにすれば、設計も政策図面も使えるから、安くなりますよと。40万キロで400億というのはけっこう安かったですよ」

取材スタッフ「安いということがひとつの決め手になった?」

豊田正敏(元東京電力副社長)「経済性だけで決めてた。それでGEに決めた」

○福島第一原発 建設開始 1967年1月

1967年1月、東京電力は福島第一原発の建設を開始します。原子炉はGEが初の量産型軽水炉として開発したマーク1でした。外側を覆う格納容器が小型なため、建設費が安いというのがセールスポイントの炉でした。コストの安い軽水炉の登場が電力会社が原発建設に踏み出すきっかけになりました。しかしこの時、政府内部では方針転換が図られていました。そのことが研究会で語らえています。

○島村原子力政策研究会 1994年夏

谷口富裕(元通産省)「軽水炉に関しては、国があまりお金を出してないですよね」

元電力会社重役「昭和42年にですね、あの時に、これはいま言うとまずいかもしれませんが、軽水炉は確立した技術で売り込みも来てるから、そっちの方へお金を出さなくてもいいだろうという説が、ある有力な筋から来て、それでそちら(軽水炉)の方は切ってという経緯があるんです。時がたつとみんな忘れちゃってるんだけど、基本はそこにあった」

この時、国は将来原発が増えていくことを見越し、原発から出る使用済み核燃料の処理について具体的な方策を考え始めていました。使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを燃料とする高速増殖炉や重水炉。国はこうした新たな形式の原子炉の開発に着手することにしました。この“核燃料サイクル計画”に原子力予算を重点的に予算を配分することにしたのです。

○島村原子力政策研究会 1994年夏

元電力会社重役「次は再処理の問題だというので再処理へお金がずっと流れ始めたような記憶はある」

谷口富裕(元通産省)「あれも非常におかしな話で、国が出しているお金はほとんど高速炉や重水炉の関係に」

元電力会社重役「そっちの方がネタとしては大きいでしょう」

谷口富裕(元通産省)「その他の新型炉や(核燃料)サイクルにいっている2000億円とか、一桁違いますよ」

島村武久(元通産省)「基本的な方針が分からないから、何に使っていいかわからんという問題もあるんじゃないか」

発言者不明「だから無駄な金を二重三重に使ったような感じがしないでもない」

谷口富裕(元通産省)「原子力の場合は最初から電力と政府の綱引き、科学技術庁と通産省の綱引きと、その中で非常にゆがんでいる気がしますね」

政府の方針転換によって、電力会社は軽水炉の原発の建設にあたり、国に資金面での援助を望めなくなっていたのです。

福島第一原発の建設にあたり、真っ先に始められたのは、海抜35メートルの台地を10メートルまで掘り下げることでした。理由のひとつが、この深さにある岩盤に炉を設置し、耐震性を高めることでした。実は、もうひとつの理由がありました。GEの設計したポンプでは35メートルの高さまで冷却水となる海水を汲み上げるのは不可能でした。ターン・キー契約は一括契約のため、ポンプの変更などの追加要求などは受け付けてもらえません。そのため、東電はGEの規格通りに建設できるよう海面近くまで台地を削り取ったのです。

豊田正敏さん(元東京電力副社長)「追加の要求をこちらが出したら、それこそ酷い追加費用を要求してきますよ。向こうに任せるからそれでやってくれてるわけで。こちらがこう変えろって言ったら、追加しろって。とたんに高いものになる」

ターン・キー契約の盲点は他にもありました。GEの設計では非常用電源となるディーゼル発電機は海側のタービン建屋の地下に設置されることになっていました。この設計もターン・キー契約であったことから、見直しが行われることなく、規格通りに建設されたのです。

○福島第一原発 営業運転開始 1971年3月

1971年3月、福島第一原発は営業運転を開始しました。経済性を重視し、ターン・キー契約で建設された福島第一原発。その後、非常用電源の位置は、変更されることのないまま事故の日まで運転を続けてきました。

豊田正敏さん(元東京電力副社長)「アメリカのGEから入れたときにはターン・キーであったこともあって、少し任せっぱなしにした点はありましたね。それでディーゼルがタービン建屋にあったことも気が付かなかったと。私も気が付かなかったことはおかしいけどね。私だけじゃなくて誰も気付かなかったのはどうかなと思うんだけど」

日本への原子力発電所の早期導入を国策として進めた国と財界。基礎から研究すべきとの主張を退けられた科学者。経済性を優先せざるを得なかった電力会社。それぞれの思惑の中で1人置き去りにされたのが安全性でした。島村たちは日本の原子力政策の欠陥について語り合っていました。

○島村原子力政策研究会 1991年夏

島村武久(元通産省)「大きな方向というものが無い、どこにも。電力会社は将来どう思っているのか、その辺もはっきりしないし、メーカーも言われれば作るというだけで、何とかいいものを作るということに間違いはないけれど、こういう風にしてこういう方向に進むべきという意見は日本のメーカーからは出てこない。政府もまた、原子力委員会が基本計画を立てることになっているけれど、従来決まっている中に情勢の変化を少し加味するくらいの程度で、抜本的なことを考える事態にない」

元日本原子力研究所 研究員「輸入技術だから日本のメーカーは基本を知らないのじゃないか。日本のメーカーも自信がない、昭和40年代はそうだった。基本をがっちり固めて軽水炉ができたのではなくて、それまでに大したことやっていると思えない。できた技術でそのままになっている部分が結構あって、そうじゃない部分について、これでうまくいってるからということで、基本が解明されていない部分が残っているんじゃないですかね。ただ問題はそれを言い出すと、今更そんなことが分かってなくて何してると叱られるのが非常に怖いから、誰も言い出さないというのが残っているんじゃないですか」

(以上)


書き起こし ETV特集 シリーズ 原発事故への道程 後編 そして“安全”は神話になった 2011年9月25日(日) 夜10時

http://nikonikositaine.blog49.fc2.com/blog-entry-1961.html

○日本万国博覧会 開幕 1970年3月14日

1970年に開催された日本万国博覧会。技術の進歩がもたらす未来の姿を一目見ようと6400万人が訪れました。万博の呼び物のひとつが“原子の灯”です。会場には原子力発電所で作られた電気が届けられました。

○日本原子力発電 敦賀発電所

万博の会場に電気を送った敦賀原発です。万博開幕と同じ日に東海原発に次ぐ日本で2基目の商業用原発として運転を開始しました。敦賀原発はアメリカから最先端の原子炉を輸入して作られました。敦賀原発の運転を軌道に載せる責任者だった浜崎一成さんです。華やかさよりもむしろ苦難の思い出の方が多いといいます。

浜崎一成さん(当時 日本原子力発電 職員)「原子炉を、軽水炉をアメリカから入れる時は、プルーブンテクノロジーだよという表題があったわけです。プルーブンテクノロジーというのは、すべて実証済みの技術だよと。我々もそのつもりでいたら、実際にはなかなかそうは行かなかったと。これは困ったなと、廃棄物処理の問題とかね。要するに処理能力が足りないわけですよ。それから、設備の中でも、配管の腐食割れの可能性とか、燃料の性能が落ちる、要するに鉄さび等、それを減らすために、ものすごく努力しましてね」

○日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)

当時は、まだ原発の安全性について注目する人はほとんどいませんでした。そんな中、原発の安全性について研究を始めた人がいます。佐藤一男さん。後に原子力安全委員会の委員長を務めた研究者です。

佐藤一男さん(当時 日本原子力研究所職員)「日本でも、世界でも、自動車が初めて世の中を動き始めた頃に、交通安全なんてことを言う人がいましたか?安全というのは、それ自身がその組織やら装置の目標じゃないんです。例えば発電所は電気を起こすのが目的なんだよね。安全というのは、その施設の1番レベルの高い、最高に重要な属性なんですよね。それが安全」

○関西電力 美浜発電所

1970年。関西電力の美浜原発が運転を開始します。民間の電力会社が単独で運転する初の原発でした。

○東京電力 福島第一原子力発電所

翌年には、東京電力が福島第一原発の運転を開始します。どちらもアメリカのメーカーからプラント全体を完成品として導入するターン・キー契約で造られました。外国から輸入すれば、素早く原発が造れる。今後20年間で117基の原発が稼働するようになるという予測さえされました。

この時代の日本の原子力の歩みについて原子力政策の中枢を担った人々が非公開の会合で振り返っていたことが分かりました。原子力政策研究会。主催者は、元通産省官僚の島村武久です。会合では、ようやく独り立ちした原子力業界の心もとなさについて話し合われています。

○島村原子力政策研究会 1991年夏

島村武久(元通産省)「大きな方向というものがない、どこにも。電力会社は将来をどういう風に思っておるのか、その辺もはっきりしないし、メーカーさんも言われれば造るというだけで。何とかいいものを造るということに間違いないけれども、こういうふうにしてこういう方向に進むべきだという意見が日本のメーカーからは出てこないね。政府もまた、原子力委員会が基本計画を立てるということになっているけれど、従来決まっている中に、その後の情勢の変化を少し加味するぐらいの程度でね。抜本的なことを考える事態にないでしょう。そういう状況じゃないですかな」

元日本原子力研究所研究員「昭和35年ころまでに米国で、それまでにそんな大したことやってると思えないんです。それで、できた技術でそのままになっている部分が結構あって、最初設計して、これでうまくいってるからということで、基本が解明されていない部分が残ってるんじゃないですか。そういうものをもう一回見直して、そこの中から研究テーマを探すようなことをしないと。“原子力には研究テーマはないんだ”と言う話もちらちら聞こえてくるんで。ただ、問題はそういうことを言い出すと、今更そんなことが分かっていなくて何をしているんだと叱られるのが怖いから、誰も言い出せないというのが残ってるんじゃないですかね」

しかし、当時の日本では、原子力発電への期待が膨らむ一方でした。高度経済成長のただ中にあった日本。経済大国に向かって躍進し、電力需要は毎年10%の勢いで伸び続けていました。一方、この時代は都市と農村の経済格差が広がり、過疎に悩む地方が生まれていました。そこに1人の政治家が登場します。田中角栄総理大臣。田中は原発の地方への立地を国策として進めました。

○電源三法

・電源開発促進税法

・電源開発促進対策特別会計法

・発電用施設周辺地域整備法

1974年6月、原発立地を推し進める3つの法律が成立します。電源三法は、原発を受け入れる自治体に補助金を交付することで立地を促進するものでした。成長に取り残された地方に原発を造り、経済格差を縮小させる。同時に、電力の安定供給を確保しようとしたのです。

○原子炉立地審査指針

これは、どのような場所に原発を建設していいいのか、条件を国が定めた原子炉立地審査指針です。人が住んでいない、非居住区域であること。その外側も人口の少ない地域であること。指針に従えば、原発立地に適合するのは、都市部ではなく過疎地になります。指針作りに関わった放射線安全管理の専門家、板倉哲郎さんです。

板倉哲郎さん(当時 日本原子力発電職員)「よく地方の方はね、田舎の人間よりも、都会の人間を大事にして、田舎の人間は放射能受けていいのかと。そうじゃないんですね。放射能は受けても、致命的な放射能は受けないようにします。その他にさらに、安心していただけるような事後対策が十分できますよと、いうがために、人口の多い大都市の真ん中には造らないというのがひとつ思想なんですよね」

島村原子力政策研究会では、原発の地方立地に沸く時代に起きた反対運動について語られています。

○島村原子力政策研究会 1988年3月18日

「伊方の(原子力発電所の)帰りに橋を見てね、帰った時、観光コースみたいなものです」「そんなつまらんことやられたら弱っちゃう」「それで橋も見られる」「それで思い出すのですけれど、伊方の発電所に手をつけた時に、1番反対したのは60歳前後から上の人。その人たちは“非常に生き甲斐だ”と言うのだな、反対するのが。こっちはむきになって一生懸命“大丈夫だ”と言うでしょう。“ダメダメ、そんなんじゃ全然ダメ”とか言ってね」「そうすると我々行ってね、なんかやるでしょう。いろいろと陳情したり。“急に放射能浴びたらかなわん”とか。いや、そういう怖い話というのは非常に信じると宗教みたいなもので」「私が聞いた奥さんも“子供に食わせるものが心配だ”というわけです」

○愛媛県伊方町

研究会で語られていた愛媛県伊方町。原発立地をめぐり激しい反対運動が起きました。半農半漁の町だった伊方町も、他の町と同様、急速な過疎化に直面していました。危機感を抱いた町は原発誘致に乗り出します。雇用の増加や商業の発展など経済効果を期待してのことでした。1970年、四国電力は初の原発として伊方町への建設計画を発表します。

四国電力記者会見「この原子力発電所から放射能が出るということは、絶対に無いということを確証を持って申し上げる」

しかし、住民の間から原発に対する不安の声が上がります。その多くが農業や漁業で生計を立ててきた人々でした。当時、瀬戸内海には次々とコンビナートが建設され、大気や海の汚染が問題となっていました。原発が新たな汚染を生むのではないかと考えられたのです。西村州平さんも公害問題に取り組む中で、原発に注目するようになりました。

西村州平さん「あちこちで公害問題がいろいろ言われる時代で、水島や長浜にもできるいうことで。これはいけん、言うよって、数年経って、そこに原発ができる、これはなおいけないということになって、他のことせんで原発ばかりになってしまったという、流れがね」

○町見漁協臨時総会 1971年10月12日

伊方の漁業組合の総会です。原発建設にあたり、四国電力は漁協に漁業権放棄を求めました。その賛否をめぐり混乱が生じます。原発を推進する漁協幹部たちは強行採決に踏み切ったのです。決議は認められ、県知事と町長立会いのもと、電力会社と漁協の間で漁業権放棄に伴う補償金交渉がまとまりました。伊方原発の建設が一気に進められていきました。

○松山地方裁判所

原発の安全性に対し、不安が拭えない住民たちは行動に出ます。1973年夏、原発立地の許可を出した内閣総理大臣を相手取って、裁判に訴えます。

○伊方原発訴訟 一審提訴 1973年8月27日

原告住民が求めたのは、原発設置許可の取り消しでした。原告住民は35人。しかし、彼らに原子力の専門的な知識はありません。法廷闘争は困難が予想されました。そこに支援させて欲しいという科学者が現れました。京都大学や大阪大学の若い原子力の研究者たちでした。当時、京都大学の原子核工学教室で助手をしていた荻野晃也(こうや)さんもその1人です。

荻野晃也さん(当時 京都大学工学部助手)「原子核工学教室で原子力推進の学生を教育する機関ですから、自分の責任としても、原子力発電所は本当にどうなのかというのを調べ始めたというのが率直なところですね」

取材スタッフ「異を唱えるというのはそこから飛び出してしまうこと…」

荻野晃也さん(当時 京都大学工学部助手)「それは覚悟しなければできない。それはしょうがない。その覚悟をするかしないかは私も、若かったですけど、だいぶ悩みました。悩んだんですけど、覚悟したんですよ」

被告の立場に立たされた国も錚々たる専門家たちを証人に揃えました。内田秀雄東京大学教授をはじめ、原子力政策の根幹に携わってきた人々でした。国側の証人の1人、村主進さん。伊方原発の設置許可審査にも関わっていました。

村主進さん(当時 日本原子力研究所職員)「事故が起こった時でも、周辺住民の健康に影響しないようにする。被曝ゼロとは言ってないですよ、健康に影響しない。事故が起きても住民に被害を与えないように、立地の妥当性を評価しますと」

原発は安全か。原子力の専門家たちが国側と住民側に分かれて争った伊方原発訴訟は、日本で初めての科学裁判と呼ばれました。伊方裁判の原告側弁護団長を務めた藤田一良さん。原子力はまったくの専門外でした。

藤田一良さん(伊方原発訴訟 原告側弁護団長)「司法の世界というのはとかく、科学的なこととか、工学的なこと、そういうものが絡むと、みんなが自分らは弁護士だからということで、そういう世界は自分らがまともにかまってやれることじゃないというのがあって、あんまりそういことに手を出さないですね。全部原発推進ばっかりでしょ、挙国一致みたいな形で起こることは、常に危ないところが必ず含まれてると。そういうのは、ある種僕の物の見方の固定観念みたいなものがありますからね。他の人がしないほど僕がせないかん事件やなと、そういう思いが強かったですね」

裁判の傍聴席には、原水爆禁止運動の指導者、森滝市郎がいました。1950年代に原子力の平和利用を容認した森滝も、この頃にはすべての核を否定するという立場に転じ、住民を支援しました。1973年、およそ20年に渡る伊方原発訴訟が始まりました。

○立教大学

伊方原発訴訟の法廷での専門家の証言を記録した弁論調書が残されていました。資料は320点。この記録によって裁判の争点をたどることができます。原告がまず問うたのは、伊方原発が安全だとして国が設置許可を出した根拠は何かということでした。原告側の藤田弁護士は、国の安全審査の責任者、内田秀雄教授に、審査の際に想定した事故の規模について質問しています。

原告側弁護士 藤田一良「最大限として、外に出る放射性物質の量は、原子炉全体の何%ぐらいだという形で想定して審査したわけでしょうか」

国側証人 内田秀雄「放射性ヨウ素の場合は、994キュリーと評価しています」

原告側弁護士 藤田一良「それは原子炉内にある放射性物質全体のどのくらいになるわけですか」

国側証人 内田秀雄「1万分の1くらいじゃないかと思います」

原告側弁護士 藤田一良「これは原子炉内の放射能が全部出るのを想定するのがいいんじゃないんですか」

国側は炉心から冷却水が失われても、安全装置ECCSが働くので、原子炉の中の放射能が全部出る事態には至らないと主張しました。

原告側弁護士 藤田一良「燃料体が加熱されたり、破損したり、あるいは溶融することが考えられますので、緊急炉心冷却設備によりまして、炉心に水を注入いたします。従いまして、格納容器スプレーによりまして、水を降らせまして、格納容器の圧力、温度というものが、設計条件以下になるようにするわけです。安全対策の1番大きなものは、工学的安全施設を持っていることであります」

これに対して原告側は、もし安全装置が働かなかった場合は深刻な事故に発展すると指摘、炉心溶融という現象について説明しました。

原告側証人 藤本陽一「事故の時、どんなのが最悪の事故になるかというと、圧力容器の中の水が無くなってしまって、空焚きになる。それで、原子炉はその熱を外へ運ぶものが無くなる。原子炉はその時止まるわけですけれども、放射能の余熱で炉の温度はどんどん上昇する。そういう状況が1番危険な状況。あり得る状況。それを防げる自然法則は無いということです」

原告側証人の1人だった藤本陽一さんです。藤本さんは、安全装置ECCSが働かない可能性を指摘しています。

藤本陽一さん(当時 早稲田大学教授・原子核物理)「最悪の可能性ということを考えるならば、ECCSが思ったように作用しないということだってあり得るわけですから。コンテナーというもうひとつの防護壁が、人間のやる防護壁ですから、それも潰れたという時には、どれくらいの量の放射能が、放射性物質が、放出されるか。これはとても許容できないと」

国は、そうした事故は想定する必要がないほどわずかな可能性しかないと主張。原告はその可能性について問い質しています。

原告側弁護士 藤田一良「内田教授が主張する想定不適当事故というのは、どの程度の確率の事故を言うのですか」

国側証人 内田秀雄「国際的には10のマイナス6乗くらいを目標にして、もう少し厳密に言えば、10のマイナス7乗よりも小さい、ということがはっきりするようなものは想定しないわけです」

原告側弁護士 藤田一良「100万分の1でも、当然起こり得るでしょう」

国側証人 内田秀雄「起こり得るというわけではない。ありそうもない事故の確率というのは、こういう事故が起こらないという設計にして造ったわけです。起こらないけれども、実際に起こらないことの信頼性はどの程度なのか、ということなんです」

深刻な事故の確率は100万分の1と証言した内田秀雄教授の言葉です。「原子力利用の社会的意味・効果と事故によるマイナスの影響・リスクの潜在性との比較が行われる必要がある。無視できる程度のリスクは受容可能であるということで、原子力発電の利用が容認・推進されるということの認識が大切である」(著書:機械工学者の回想)

○「原子炉安全研究」

裁判で国側は、100万分の1とした原発事故の確率の裏付けとして、アメリカの最新の研究をあげています。1975年に発表された報告書です。さまざまなリスクと原発事故を比較しています。原発事故で死亡する確率は、隕石の衝突で死亡する確率とほぼ同じ50億分の1であると結論付けています。この報告書を日本に紹介した1人が国側の証人、村主進さんでした。

村主進さん(当時 日本原子力研究所職員)「炉心溶融する確率は、100万分の1というのは、僕も言ってました。我々が100万分の1回と言ってるのは、例えばECCSのポンプが、何回起動要求を出したか、起動しなかったかの実績をもとにして、100万分の1回ということを出しているわけ」

原子力利用の社会的効果を考えれば、100万分の1の事故の確率は、無視してよいとする国側。たとえ100万分の1でも、ゼロとは違うとする原告。両者の主張は平行線をたどりました。

○オイルショック 1973年10月

伊方裁判が始まってまもなく、日本はオイルショックい見舞われました。石油不足から火力発電の操業が滞ります。計画停電で町は真っ暗になりました。経済界を中心に原発建設を求める機運が一層高まります。

○伊方原発 核燃料搬入 1976年8月

伊方原発では着々と建設が進んでいました。76年には最初の核燃料が搬入されます。1号炉に続く2号炉の設置許可に対し、住民は不服審査を申し立てました。

住民側「事故が起きるのが分かってるのに地元の住人は、事故があった時にはどないして避難すればいいのか、それを教えて」

国側「皆さんが避難しなければならないような事故は、まず社会通念的に言えば、無いと」

住民側「絶対に安全であるということでなければ、許可すべきものではない」

国側「地元住民の納得がなければ、許可できないという仕組みにはなってない。申請を受けますと、それを我々は法律に基づきまして、審査するという立場になりますので」

住民側「もし今の言い方だったら、四国電力が手続きをしたからやりましたが、住民の皆さん方のことは知りませんということになってしまう」

国側「申し訳ないですけど、時間ですから」

住民の訴えは却下。2号炉建設が始まりました。この頃、全国の電力会社で作る電気事業連合会は、原発の理解促進を図るPR活動に力を入れるようになっていました。これは全国紙に掲載された広告です。紙面には専門家たちが次々に登場、原子力の可能性、そして安全性を説いていました。

稲垣俊吉さん(当時 電気事業連合会 広報部)「この頃はね、新聞の広告は非常にいい収入源だったからね。こぞってこじ開けて、我が社にも我が社にもと言ってこられたんで。だから、そういうことから各新聞社の人も、そんなに厳しい批判記事というのは、書かれなかったんじゃないかなぁ」

伊方原発に反対してきた住民たちは徐々に焦燥感を深めていきました。原告の1人、近藤誠さん。原発反対に対する世間の眼差しが変わっていったといいます。

近藤誠さん(伊方原発訴訟原告)「当時、地域や日本中のエネルギーのことも考えずに、これから原子力の時代なのに、そういうのに棹差す愚かな者たちだと。そして、どこに行っても、はねつけられてしまう。住民が話し合いを求めても、話し合いそのものが拒否されてしまう。そういう中で、賛成の人間と反対の人間の意見を叩き合わせることが公平にできる場所、それは当時裁判しかないじゃないかと」

提訴から3年。伊方裁判では大地震の可能性についても議論が及びました。この頃、地震の原因となる活断層の存在が注目されるようになっていました。伊方原発の近くには巨大な活断層、中央構造線が走っています。

これは伊方原発の設置にあたり、国の安全専門審査会が作成した報告書です。ここでは活断層や中央構造線については触れられていません。なぜ安全性に関わる報告書に活断層や中央構造線について記載がないのか、原告側は問い質します。

原告側弁護士 新谷勇人「活断層かどうかということは、非常に大切なことだと思いますけれども、そうじゃないんですか?」

国側証人 大崎順彦(東京大学工学部教授)「それがはっきりとした活断層として地震を起こす証拠があるならば、それは報告書にとどめるのは当然だと思いますが、そうでないという報告を受けてますので、報告書にはとどめておりません」

原告側弁護士 新谷勇人「本当に調べられたんですか?」

国側証人 大崎順彦(東京大学工学部教授)「調べられたと思います」

原告側弁護士 新谷勇人「あなたは正確にはご存じないんですか?」

国側証人 大崎順彦(東京大学工学部教授)「ただ、そういう報告を受けていませんので、そういう事実がなかったものだと思います。もし、はっきりとした活断層があるならば、そのことを松田委員らは私に報告してくれると思いますが、そういう報告はなかったということです」

証言記録に名前が登場する松田委員を訪ねました。日本の活断層研究の第一人者で、当時国の調査にあたった松田時彦さんです。

取材スタッフ「ここに、地震を起こす証拠があるならば、活断層として報告書にとどめるのは当然だと思いますが、そうでないという報告を受けておりますので…」

松田時彦さん(地震地質学者)「それは嘘ですよ。それは酷いですね。我々があんなに、周りの方々が飽き飽きするほどの時間を要したのは、あれが活断層であるということ、そのために時間を取ったのに、そのことはなかったと…」

○「地質学論集」第12号

当時、松田さんが作成した活断層の地図です。伊方近くには活断層の存在が推定できるとしています。地震の可能性に触れる報告は、なぜか封印されていました。

公判の終盤になって、関係者に衝撃を与える出来事が起きます。裁判長が突然異動になったのです。証人調べのほとんどに立ち会い、現地にも足を運んでいた判事です。

○伊方原発訴訟 一審判決 1978年4月25日

1978年4月25日、松山地裁。伊方原発訴訟の判決の日です。提訴から4年、原発の安全性について科学的な論争が繰り広げられてきました。万一の事故の場合でも、住民の安全は維持できるとし、原発設置許可の取り消しを求める住民たちの要求は退けられました。さらに判決では、原発の設置を誰が決めるのかまで踏み込んでいます。「原子炉の安全性の判断には、特に高度な専門的な知識が必要であること。原子炉の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は、周辺住民との関係でも国の裁量行為に属するものと考えられる」裁量行為、つまり、原発の設置許可は、住民の合意に関わらず、国の判断で行えるものとする判決でした。

藤田一良さん(伊方原発訴訟 原告側弁護団長)「専門家的な裁量、だけどね、理化学的な専門家が、どうして人の命や財産を巻き込んでしまうような事故の審査の時に、その連中が裁量できるというのは、どこを探してもありません。世界中ないです」

一方、国側の証人、村主進さんは、そもそも原発の安全性を法廷で争うこと自体に疑問を感じていたといいます。

村主進さん(伊方原発訴訟 国側証人)「伊方裁判は、裁判すべき問題ではないと思うんですよ。それを裁判で、いい悪いと言うべき問題じゃない。争うなら、論文で、ちゃんと書いたものを残して、それでこれはこうだ、これはこうだと、あんたの主張はここがおかしいんじゃないかと。今度はこちらが、こういう考え方でこういう主張をしてるんだと、そういうことで噛み合わせれば、一点に収束するんですよ」

判決が出た時、伊方原発は既に運転を開始していました。地元には深い対立だけが残されました。伊方町で原発推進派だった松田文治郎さんです。

松田文治郎さん「この地区は反対者が多かったんです。私の叔父とかいとことか親戚関係はほとんど反対だった」

原発建設に反対した大沢肇さんです。

大沢肇さん「私のところには、1000万持ってきて原発反対やめろと言ってきた人がいます。その人の名前は言われんけんどな。だけど、俺は金で動くような人間じゃないわい言うてすぱっと断りましたけど」「人の命より大事なものはない」

○茨城県東海村

日本で最初に原発を受け入れた茨城県東海村。原子力関係の施設が多く集まっています。村上達也村長は若い頃から変わっていく町の姿を見てきました。

東海村 村長 村上達也さん「原発は圧倒的な力を持っていますから、そこでみんな働く、働いて職を得る、財源もそこに頼るということになりますから、モノが言えなくなりますよ。原発立地市町村、それに対しては特別待遇をしてくる感じの世界だなと思いますよね。そういう面では、国に抱え込まれてる世界だなと」

原発建設を国策として推進する行政。その裁量権を認めた司法。原発建設はさらに進むかに見えました。

○「むつ」放射線漏れ事故 1974年9月1日

日本で初めての原子力船「むつ」です。この船のトラブルがきっかけで、国の原子力政策は国民から疑問視されるようになります。太平洋上での出力実験中に放射線漏れを起こしたのです。基本設計の安全性を審査した科学技術庁と船の建造を管轄する運輸省が責任を押し付け合ったため、非難の声が上がりました。島村原子力政策研究会。「むつ」の問題に関わった官僚たちが原子力行政の見直しを迫られたことを語っています。焦点は、1956年に設置されて以来、日本の原子力行政を担ってきた原子力委員会のあり方でした。

○島村原子力政策研究会 1992年

島村武久(元通産省)「原子力船“むつ”の放射線漏れが1974年9月1日にあったわけですけれど、これが直接の動機になったことには間違いないんですが、それまでに原子力発電所でいろいろ事故というのは変ですけれどもあったりとか、あるいは、分析研(放射線の研究所)の問題もありましたね。なんだかんだと、いわゆる不祥事みたいなものが相次いでおったと。これも“むつ”で頂点に達したということだと私は思うのですよ」

沖村憲樹(元科学技術庁)「原子力委員会に対する批判といたしまして、まず原子力行政の責任体制が不明確であるということが批判の大きなものであると。それからもうひとつは、規制と推進が同じ組織で行われているということに対して、国民の間で不信感が起きているんじゃないかと」

当時の原子力委員会は原発を推進しながら安全審査など規制に関わる役割も担っていました。このことが問題とされたのです。

沖村憲樹(元科学技術庁)「当時はエネルギー問題が非常に重要な問題ということで、石油が足りなくなるということで、原子力にシフトしなければいかんという議論があったわけですけれども、一方におきまして、不安、国民の不安ということから、立地がなかなか進まないということで、これを進めるためには、行政機構全体を一回いじってみなきゃいけないんじゃないかということも背景にあったんじゃないかと思いました。要するに、行政全体を見直す委員会を作らなきゃいかんっていうのは、大きな世論みたいな感じだったというふうに記憶しておりますけども」

○原子力行政懇談会 1975年

1975年、政府は原子力行政懇談会を設置。有識者に原子力行政のあり方を議論してもらいました。そこで出されたのが、原子力行政を規制する強力な組織、原子力規制委員会を求める意見でした。参考とされたのは、アメリカで行われた改革でした。アメリカでは強力な権限を持って原子力関係機関の規制に当たるNRC(アメリカ原子力規制委員会)が作られていました。ところが、懇談会の事務局を務めた沖村憲樹(かずき)さんによれば、アメリカのような組織を作ることには反対意見が多かったといいます。

沖村憲樹さん(元科学技術庁職員)「やはり規制だけを集中的に考える機構が、原子力開発の根幹に関わる設置許可や運転とか全部見るわけですね。そういうことで原子力の開発がうまくいくんだろうかという意見がずいぶん寄せられまして、非常に反対意見が根強くて、はっきりおっしゃる方おっしゃらない方含めて、アメリカ型の規制委員会は日本の原子力開発に、将来に懸念があるということで反対意見が多かったと思います」

1976年7月、原子力行政懇談会は最終の取りまとめを三木首相に提出します。これを受け、原子力の委員会を分割し、新たに原子力安全委員会を発足させます。規模はアメリカNRCのわずか10分の1程度、権限も限られていました。電力会社などを指導する場合は、意見を述べるだけに留まり、直接指示命令する権限はありません。

原子力安全委員会→助言・指針→監督官庁(経済産業省・文部科学省など)→規制→原子力事業者

○島村原子力政策研究会 1992年

板倉哲郎(元日本原電社員)「ちょうどあの時でしたからね。アメリカが2つに分かれたでしょう。アメリカでもね、失敗したと思っているところは多いんですね。あれでもうさっぱり開発がなくなりましたからね」

沖村憲樹(元科学技術庁)「結果的に15年経ってみても、原子力の反対も安全委員会が吸収して、原子力発電も滞りながらもスムーズにいってますので、この体制も結果的にはよかったのではないかという気がします」

早くから原子力の安全研究に取り組んできた佐藤一男さんは、新しくできた原子力安全委員会で仕事をするようになりました。

佐藤一男さん(元日本原子力研究所職員)「安全なんか口にするなと。安全の研究なんてとんでもないと。そんなものは国民を不安に陥れるだけじゃないかと言うんでね。そういう風潮がわりと強かったんですよ。だから安全性をめぐる研究はまず日の目を見ない、そういう時代がだいぶ続いてたんですよ」

取材スタッフ「それは安全性のことを言ったらどうなるんですか?」

佐藤一男さん(元日本原子力研究所職員)「村八分だよ、言うなれば。誰も相手にしなくなっちゃう」

取材スタッフ「どこから村八分にされるんですか?」

佐藤一男さん(元日本原子力研究所職員)「原子力村からですよ。村八分というのは単なる表現ですが、そんなことを言う人は仲間外れにされちゃいますから」

100万分の1という大事故発生の確率。原発は限りなく安全だという考え方に疑問を抱くことをタブーとする暗黙の了解が定着しつつありました。そんな矢先でした。

○スリーマイル島原発事故 1979年3月28日

1979年3月28日早朝、アメリカのスリーマイル島原発で安全装置ECCSが停止し、炉心溶融事故が起きました。原子炉からは大量の放射能が放出され、数万人の住民が町から避難する事態になりました。

○学術シンポジウム 1979年11月26日

アメリカで起きた事故は日本の研究者を動揺させました。スリーマイル島の事故を受け、これまで原子力政策に協力してきた研究者たちは、事故を検証するシンポジウムを開きました。しかし、原発の危険性を訴える研究者たちが排除されようとしたため、激しい対立となりました。

スリーマイル島原発事故の直後、伊方原発訴訟の控訴審が高松高等裁判所で始まりました。原告側は、国が立地審査の際には想定していない「想定不適当」事故だとしていたメルトダウンが起きた以上、原発許可はあらためて無効だと訴えました。

原告側証人 藤本陽一「スリーマイル島の原子力発電所で起こった事故は、論争の経過を言えば、“想定不適当”な事故でございます。スリーマイル島の事故で出て行った放射能は、伊方の安全審査の時の最悪の仮想事故の数字を上回る量で、数十倍に達する量が出たわけです」

二審で国側の証人に立ったのは、佐藤一男さんたった1人でした。

国側証人 佐藤一男「運転員と呼んでよろしいと思いますが、この人たちの誤った判断に基づく行動によると思います。それが決定的な要因でございます。従って、その設計そのものが直接の決定的要因になっているということではございません」

原告は、一審で国が起こることはないとしていたメルトダウンが現実的に起きたことを問い質します。

原告側弁護士「メルトダウンにより圧力容器が割れたら、放射性物質が全部外に出てしまいますね。大変なことになりますね」

国側証人 佐藤一男「はい」

原告側弁護士「国の方では、いや、それは破損することはないという前提に立ってますね」

国側証人 佐藤一男「はい」

原告側弁護士「住民の方からは、圧力容器だって破損しない保証はないじゃないかと主張しておった。これはご存じですか?」

国側証人 佐藤一男「私は直接は目にしていないと思います。ただ、圧力容器が破損するかどうかという問題は、いろいろなところで論じられております」

原告側弁護士「圧力容器の破損に対しては、安全装置が無いんだということ、これはいいですね」

国側証人 佐藤一男「破損そのものに対しては、破損してしまえば、直接にはございません」

原告側弁護士「日本では破損しない前提で安全審査をしているんですね」

国側証人 佐藤一男「さようでございます」

佐藤さんは、原発事故発生の確率は100万分のという国の主張してきた安全性をたった1人で背負って争うことになりました。

佐藤一男さん(元日本原子力研究所職員)「それはね、誰が言ったかということになるんですよ。住民の方には耳触りがいいからさ、そっちの方が、そうかと思いたくなるんです。安全だって言われた方が安心でしょう。だけどね、そういうことを言ってる人が本当にそう思って言ったんだろうかと。その場しのぎのことを言ったのかもしれない。あるいは、本当にそう思ったんだとしたら、その人はそういう仕事を担当する資格に欠けていたかもしれない。そんないい加減なことで安全の担当をしていたんですか、なんて言いたくなる話でしょう。だから、そういう話は後になって災いを残すんです、いろんな意味で。だから、そういうことを言った人たちは、もう亡くなったり引退したりしちゃってるからいいかもしれないけど、後継者は本当に苦労するんですよ」

原告側は一審の証人であった内田秀雄・原子力安全委員長の証人尋問を求めます。これに対し、国側は審理は尽くされていると早期の結審を求めます。その結果、裁判長は弁論終結を宣言しました。翌年、控訴は棄却。原告住民は上告しました。

○伊方原発控訴審 棄却 1984年12月14日

80年代になると、原発政策の担い手たちの間では、原発の稼働率の低さが問題にされるようになっていました。

○島村原子力政策研究会 1991年夏

谷口富裕(元通産省)「電力の技術屋さんは会社によって非常に差がありますけど、一般的には、技術のユーザーだということですね。私なんか嫌味で、電力の技術屋さんは電話をかける技術屋さんが非常に多いんじゃないかと言ってるんですけどね。自ら技術の改良とか基本的対応というのを積極的に取り組むようなトレーニングを受けていない、あるいは能力を開発していないというのは明らかにあって、基本のところは自分でデザインしたり開発したりしたわけじゃないですから。運転とかメンテナンスやきめ細かいところの改良は得意なんですけどね、根っこまで入っていくと技術基盤が十分強いのかなと」

島村武久(元通産省)「電力会社はね、何にもできないのかと、検査も、受け入れの。疑問があるんですよ。物を買ってね、悪かったから取り替えろは当たり前かもしれないけれど、自分で買ったものを動かしておいて、そしてそれが自分も気が付かない」

この頃、各地の原発では故障やトラブルが続出していました。その度に長期間運転を停止しなければなりません。原発のメリットは、燃料費が安いため、電力を安価に供給できることでした。そのメリットが生かせません。原発の稼働率をグラフにしたものです。

原発の稼働率(設備稼働率) 74%(1970年度)→42%(1975年度)

原子力発電が本格化した1970年代以降、稼働率は低下を続けていました。当時、東京電力の原子力保安部長だった豊田正敏さん。財界から稼働率を上げるよう要請があったといいます。

豊田正敏さん(元東京電力副社長)「トラブルが多くて止まった時はね、経団連の会長だった土光さんから“おい、何とかしろ”と言われたのですよ。そんなこと言ったって、任してくださいよ、ともかくね、そんなに今日言われて、今日やって、すぐにね、稼働率が上がるものじゃないのでね。数ヶ月とか1年はかかりますよと言ったんです」

○改良標準化調査委員会

1975年、国は改良に取り組む委員会、改良標準化調査委員会を通産省の中に設置します。故障やトラブルの原因となる機械の欠陥を改良し、国内の原発の新たな規格を作ることで、稼働率を上げようとするものでした。

○原子力関連メーカーの研究投資額

これは原子炉にかけられた投資額をグラフ化したものです。改良標準化が始まってから原発に注がれる資金は急増しています。電力会社は稼働率の高い新しい型の原発を建設することに力を入れていました。そんな中、アメリカから思わぬ知らせが入ります。アメリカ議会、公聴会での証言です。

「問題を検証し、正しい判断を下す基準が見当たらないと言っているのです」

福島第一原発などで採用している原子炉、マーク儀燭重大な事故につながる欠陥を持つことが指摘されたのです。

デール・ブラインデンボーさん(元ゼネラル・エレクトリック社技術者)「いくつかの原発は、すぐに運転を停止すべきだと思いました。安全かどうかの調査が終わるまでは電力会社に停止すべきだとの意見を伝えました。GEの上司にも伝えました」

しかし、東京電力はマーク儀燭慮胸厦Г鯆篁澆垢襪海箸呂任ませんでした。

豊田正敏さん(元東京電力副社長)「一番の目的はやっぱり新しいものを、材料も設備も標準化すれば、予備も共通で持てるとかね、それから安全審査なんかも一回で済ませるわけですよね。あと右へならえで安全審査期間も短縮できるわけですよ。そういうメリットはありますよ。だけど既設のものについては、やることはやりますけれども、100%はやりませんということはあります。それを福島第一(原発)・第二(原発)とか4号機あたりまでのものにやれといっても、それはできませんということでね」

1984年、改良標準化でを急増を続けていた原子炉への投資は下降に転じます。代わって増加したのは、核燃料サイクルへの資金注入でした。島村研究会はその予算配分の変化について触れています。その時、国の原子力政策に大きな方針転換があったといいます。

○島村原子力政策研究会 1991年夏

島村武久(元通産省)「電力会社も相当長年にわたってずいぶん(改良を)続けてきたんですよ。一渡りもう、軽水炉の方はいいなと言い出したのは今から何年前でしょうかね、7から8年前でしょうか。それくらいになると減ってきましてね。それで、次は再処理の問題だというので、再処理の方へお金がずっと流れ始めたような記憶があるんですけれど。いっぺんそこをトレースしてみると、二度目の軽水炉への援助は一定のところでまた落ちているのですよ。電力の援助もね」

谷口富裕(元通産省)「今のプルトニウムの技術を中心にした核燃料サイクルの確立というあたりにも、それについての国際的なアクセプタンスをどう得ていくかという、こんな経済的に引き合わなくて、政治的には最近みんなが日本に警戒心を高めている中で、うまくいくわけがないじゃないかという心配をですね、非常にしているというのが率直なところです」

○核燃料サイクル計画

核燃料サイクルとは、原発から出る使用済み核燃料を循環させるシステムです。再処理してプルトニウムを抽出します。それを高速増殖炉などで再び燃料として使用するというものです。国がこの核燃料システムの完成を急いだのには、国際情勢の変化があったといいます。

○島村原子力政策研究会 1989年10月12日

遠藤哲也(元外務省)「そもそもの始まりというのは、インドの、1974年の確か5月だったと思いますが、インドが核実験をやったと。核の平和利用だというけれども、いずれにしても核爆発をやったということで、アメリカが、これはうっかりしたら核が世界に拡散していって、大変に国際政治上の不安定要素を引き起こすと。NNPAという、例の1978年の核不拡散法をアメリカで作って、これは勝手極まりない法案ですけれど、国内法を作ってですね、“お前も飲め”と各国に。アメリカは力が強いですから、ああいうふうに言えるんでしょうけれど、押し付けてきたと」

島村武久(元通産省)「私が一番心配しているのは、まだ再処理工場は建設にも入っていないのだから。あれがね、本当に、皆が願うように完全に動き出したらね、とても余ってしょうがない、日本のね、見通しからいうと。そうすると、ランニングストップやる。なんか、日本が必要とする物をアメリカが認めるだろうけど、当面、使用の見込みのないプルトニウムのほとんどを再処理工場で製造することはね、アメリカは黙って許せるだろうか。だいぶ昔からアメリカに反対する根拠はないと言っているけれど、実質的にはそれこそ、遠藤さんが先ほど言われたようにね、アメリカは行政府じゃなくて議会ですから。そうすると議会がまた騒ぎ出して“日本国民はプルトニウムを貯めてる”となってくると問題だし。仮に技術的に動いてもですよ、動かせないと、運搬できないと、そのようなことにでもなると、その損失というのが相当な問題になると思うんですよ」

○インドの核実験 1974年5月

1974年、インドが核実験に成功します。核爆弾の材料となるプルトニウムは、平和利用のための原子炉で抽出されていました。アメリカのカーター政権は、核不拡散のためにウラン燃料を厳しく管理する政策に転じます。

○日米原子力協定交渉

日本はアメリカから使用済み核燃料の使用法を注視されるようになりました。日本はプルトニウムを軍事利用しないことを示すため、一刻も早くプルトニウムを燃やす新型炉を完成させたいという事情がありました。核燃料サイクルへの予算の重点配分はこのためでした。

○チェルノブイリ原発事故 1986年4月26日

1986年4月、ソビエトのチェルノブイリ原発で事故発生。事故評価、レベル7。これまで人類が経験したうちで最悪の原発事故となりました。ヨーロッパ一円に広がった放射能汚染の実態はいまだ全容が明らかになっていません。島村研究会でも当然、この歴史的大惨事は取り上げられていました。

○島村原子力政策研究会 1991年夏

谷口富裕(元通産省)「この間ヨーロッパの人たちと議論していてですね、フランスの政府の人と、あとOECDの人がいましたけれど、チェルノブイリ事故は非常に良かったと言うんですよね。チェルノブイリ事故がなぜ良かったかというとね、チェルノブイリ事故が起きたことで、もちろん、ソ連の体制がおかしくなっただけじゃなくて、ソ連でもがむしゃらに原子力をやらなくなったと。東欧圏でも原子力をやめになった。発展途上国でも原子力をやることに非常に慎重になった。結果として日本が一番得するんじゃないか。石油危機の時にも同じことを言われた。石油が足らなくて脆弱で一番困るのは日本じゃないかという俗説に対して、石油をもっとも効率的に使う技術、産業ポテンシャルが一番高いのは日本だから、日本が一番得するだろうと。今度のチェルノブイリ事故でもですね、原子力技術はなかなか難しくて大変で、それぞれ各国で目いっぱい社会情勢を踏まえてやっている中で、ブレーキがかかった時に、一番改善の能力と持ちこたえる能力が今あるのは、日本じゃないかと」

○柏崎刈羽原子力発電所(東京電力)

東京電力は新潟県柏崎刈羽に最新式の世界最大の原子力基地を完成させたのは、チェルノブイリ事故の後でした。

○伊方原発訴訟 最高裁判決 1992年10月29日

1992年10月29日、一審以来19年間争われた伊方原発訴訟が結末を迎えました。上告棄却。原告住民の敗訴が確定します。

「原子炉設置許可は各専門分野の学識経験者などを擁する原子力委員会の科学的、専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的判断にゆだねる趣旨と解するのが相当である。周辺住民が原子炉設置を告知されたり、意見を述べる機会がなかったことは、法による適正手続きを定めた憲法違反とはいえない」

原告側弁護士 藤田一良「とにかく、最悪の判決だと思いました。最高裁がこういう不誠実な判決を出す、司法としてあるまじき判決を出すということであれば、原発に関して、どのような大災害が起こり、そして国民に降りかかるという事態に対しては、最高裁も共同して責任を取らなければならない」

これ以降、原発立地をめぐる裁判で原告勝訴が確定した例は、いまだ1件もありません。安全審査の妥当性を司法の場でチェックする道が絶たれる中、原発の安全神話が広く定着することになったのです。

○島村原子力政策研究会 1991年夏

谷口富裕(元通産省)「日本の電力会社は先進国の電力会社に比べると、相当特殊な感じがありまして。何が一番特殊かというと、日本の電力会社というのは、際立って立派というか、諸外国の電力会社と比べると強力な組織なわけですね。それは地方へ行ったらさらに、地方の電力会社というのは、地方の本当のリーダーというか殿様というか、そういう感じがあって、地域の開発の隅々にまで電力会社に依存しているような図式がありまして」

◇福島第一原発事故

そして、あの日を迎えます。欠点を指摘されていた福島第一原発の原子炉マーク儀拭B冤冉数とされた30年を超え、40年を超え、さらに10年の使用延長許可を認められた矢先でした。建屋の損壊、放射能の放出という最悪の形で廃炉が決まりました。

日本の原子力の歩みを記録してきた島村原子力政策研究会。今も島村武久の後輩の世代によって会合は続けられています。

浜崎一成さん(元日本原子力発電副社長)「起こるはずもない事故が起きたと。まさにこれは、同じことが起きるはずがないし、起こしてはならない事故であるという認識でしたが、実際に事故が起きてしまったと」

松浦祥次郎さん(元原子力安全委員会委員長)「この起こるはずのない事故が起こったという表現は、読みようによっては、非常に奇妙な表現でもあるんですね」

殿塚猷一さん(元日本原子力研究開発機構 理事長)「起こるはずがないよねと我々が思っていたという、ひとつの思い込みというのが、かなり原子力村しか通用しないと言われた独善性の気持ちというものを、表現しているような意味にもとれる」

遠藤哲也さん(元外務省科学技術審議官)「日本の国はもう信用されていないと思うんですよ。いくら日本の国が言ったって駄目だと思いますよ」

浜崎一成さん(元日本原子力発電副社長)「遠藤さんね、政治の指導力によるんじゃないですか」

遠藤哲也さん(元外務省科学技術審議官)「誰が来たって、ろくな政治家が来っこないですよ」

浜崎一成さん(元日本原子力発電副社長)「いや遠藤さんね。いずれにしてもね、国民の理解と地元の合意がなければ原子力は継続してできないわけでしょ」

メンバー全員、事故後も変わらないもの。それは日本には原子力が必要だという信念です。

伊藤隆彦さん(元中部電力副社長)「じゃあそこで簡単に原子力をやめてしまっていいのか。リスクがゼロじゃないならやめてしまっていいのかと。日本全体を考えたときに、じゃあ日本の将来どうするんですか、エネルギーなしに日本はやっていけない」

松浦祥次郎さん(元原子力安全委員会委員長)「エネルギーの究極は原子力という核反応、あるいは核の崩壊によるものだと。それをどのように安定して安全に使うかというのは、まさに人間の知恵次第ではないかと思うんで」

伊原義徳さん(元科学技術庁事務次官)「一口で言えば日本は石炭も石油もないわけですから、エネルギーとしては原子力しかないだろうと。だから非常に危険なものであってもですね、これを何とか飼いならして、ちゃんとしたものに仕上げなければいけないという発想で、ずっと今まで来ていると思いますね」

ある時は立地を進めるため、ある時は稼働率を上げるため、安全という言葉はいつも口にされてきました。しかし、それが誰のための安全であったのか、今初めて厳しく問い直されています。

(以上)


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Last-modified: 2011-10-04 (火) 00:57:50 (2212d)