福島第一原発事故

あの時、福島のある町で起こっていた、25人の真実

ウィンザー通信 2011年10月13日
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/f13884af9cb768d68c404735366479dd

薔薇、または陽だまりの猫さんのブログに、ずっと読みたいと思いつつ叶わないでいた幻の記事の、今現在までのものが、まとめて掲載されていました。

福島県、浪江町の津島地区で起こった、津波と原発事故直後の様子が詳しく語られています。
『プロメテウスの罠』と題されたこの記事は、前田基行記者が取材した、現在連載中のものです。

その第1シリーズとなった『防護服の男』が、ずっと読みたいと思っていた記事なのでした。

ギリシャ神話によると、人類に火を与えたのはプロメテウスだった。

火を得たことで人類は文明を発達させた。化石燃料の火は生産力をさらに伸ばし、やがて人類は原子の火を獲得する。それは「夢のエネルギー」とも形容された。しかし、落とし穴があった。

プロメテウスによって文明を得た人類が、いま原子の火に悩んでいる。福島第一原発の破綻(はたん)を背景に、国、民、電力を考える。

■防護服の男 (1)

(記事中の敬称は略しています)

福島県浪江町の津島地区。
東京電力福島第一原発から、約30キロ北西の山あいにある。

原発事故から一夜明けた3月12日、原発10キロ圏内の海沿いの地域から、1万人の人たちが津島地区に逃れてきた。
小中学校や公民館、寺だけでは足りず、人々は民家にも泊めてもらった。

菅野(かんの)みずえ(59)の家にも、朝から次々と人がやってきて、夜には25人になった。
多くが親戚や知人だったが、見知らぬ人もいた。
築180年の古民家を壊して、新築した家だ。
門構えが立派で、敷地は広い。
20畳の大部屋もある。
避難者を受け入れるにはちょうどよかった。
門の中は人々の車でいっぱいになった。

「原発で何が起きたのか知らないが、ここまで来れば大丈夫だろう」
人々はとりあえずほっとした表情だった。

みずえは2台の圧力鍋で米を7合ずつ炊き、晩飯は握り飯と豚汁だった。
着の身着のままの避難者たちは大部屋に集まり、握り飯にかぶりついた。

夕食の後、人々は自己紹介しあい、共同生活のルールを決めた。

一、便器が詰まるのを避けるため、トイレットペーパーは横の段ボール箱に捨てる。
一、炊事や配膳はみんなで手伝う。
一、お互い遠慮するのはやめよう……。

人々は菅野家の2部屋に分かれて寝ることになった。
みずえは家にあるだけの布団を出した。

そのころ、外に出たみずえは、家の前に白いワゴン車が止まっていることに気づいた。
中には白の防護服を着た男が2人乗っており、みずえに向かって何か叫んだ。
しかしよく聞き取れない。

「何? どうしたの?」
みずえが尋ねた。

「なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ」

みずえはびっくりした。
「逃げろといっても……、ここは避難所ですから」

車の2人がおりてきた。2人ともガスマスクを着けていた。
「放射性物質が拡散しているんだ」
真剣な物言いで、切迫した雰囲気だ。

家の前の道路は国道114号で、避難所に入りきれない人たちの車がびっしりと停車している。 2人の男は、車から外に出た人たちにも「早く車の中に戻れ」と叫んでいた。
2人の男は、そのまま福島市方面に走り去った。
役場の支所に行くでもなく、掲示板に警告を張り出すでもなかった。

政府は10キロ圏外は安全だと言っていた。
なのになぜ、あの2人は防護服を着て、ガスマスクまでしていたのだろう。
だいたいあの人たちは誰なのか。

みずえは疑問に思ったが、とにかく急いで家に戻り、避難者たちにそれを伝えた。

■防護服の男(2)

  3月12日夕、菅野みずえは自宅に駆け戻り、防護服の男たちの話を避難者に伝えた。
議論が始まった。

「本当に危険なら町や警察から連絡があるはずだ。様子をみよう」
やっと落ち着いたばかりで、みんな動きたくなかった。

しかし深夜、事態が急変する。
数台のバスが、避難所になっている公民館に入って行った。
それに避難者の1人が気付く。
バスの運転手は「避難者を移動するのだ」と言ったという。

当時、浪江町は、逃げ遅れた20キロ圏内の町民たちを、津島地区まで、バスでピストン輸送していた。
しかし、みずえはそんなことは知らず、やはりここは危ないのではないかと思った。
みずえは寝ていた人々を起こし、再び議論となった。

多くは動きたがらなかった。
しかし、一人の女性が「みんながいたら、菅野さん家族が逃げられないでしょう」といった。
それで決まった。

「車のガソリンが尽きるところまで避難しよう」
深夜0時すぎ、若い夫婦2組が出発した。
2月に生まれたばかりの乳児や、小さい子どもがいた。
夫婦は最初、「こんな深夜に山道を逃げるのはいやだ」と渋ったが、「子どもだけでも逃がしなさい」とみずえがいい、握り飯を持たせた。

翌13日の朝食後、再び話し合った。
前夜「逃げない」といっていた若い夫婦連れが「子どものために逃げます」と言った。
年配の女性が、夫婦に自分の車を貸した。
「私は1人だから、避難所でバスに乗るわ」

夕方までには、25人全員が福島市や郡山市、南相馬市などへそれぞれ再避難した。

みずえは近くの家で避難している人たちにも、防護服の男たちのことを伝えた。
1人が笑って答えた。
「おれは東電で働いていた。おれらのつくった原発がそんなに危ないわけねえべ」
男は原発事故からではなく、津波から逃れてきたのだ。
みずえはこれで気が抜けた。
みずえと長男の純一(27)は避難を取りやめた。

純一は避難所の活性化センターの炊き出し係で、握り飯をつくっていた。
「おれだけ逃げるわけにいかないよ」
このとき津島地区から10キロほどの地点で、30マイクロシーベルト用測定器の針が振り切れていた。

■防護服の男 (3) 警察官、なぜあんな格好を

3月13日に、菅野家の25人が出て行った後も、津島地区の避難者は、大半が残っていた。
避難指示は、12日午前5時44分に、10キロ圏内に拡大。
1号機が水素爆発した後、午後6時25分に、20キロ圏内に広がった。

しかし、官房長官の枝野幸男は、12日夜の記者会見で、
「放射性物質が大量に漏れ出すものではない。20キロ圏外の地域の皆さんに、影響を与えることにはならない」と語った。
要するに、たいしたことはないが、念のため避難してくれ、という趣旨だ。
人々は、30キロの津島地区は安全だと信じていた。

東電の社員が、12日と13日に、浪江町の津島支所を状況報告に訪れた。
彼らは防護服ではなかった。
「ここは危ない」ともいっていない。
菅野みずえが会った男たちの様子とは大きく違っていた。

役場職員も区長も、みずえの会った防護服の男を見ていない。
しかし、みずえは、見聞きしたことをしっかりメモに書きとめていた。

15日早朝、前日の3号機に続いて、2号機で衝撃音がし、4号機が爆発した。
政府は初めて20~30キロ圏内の「屋内退避」を要請する。

津島地区の住民が避難したのはそのころだった。
町長の馬場有らが、14日の3号機の爆発をテレビで知り、隣の二本松市に、15日から自主避難することを決めたのだ。

福島第一原発の正門では、15日午前9時に、毎時1万1930マイクロシーベルトの高い放射線量が観測された。
それでも、枝野の発言は楽観的だった。

「放射性物質の濃度は、20キロを越える地点では相当程度薄まる。人体への影響が小さいか、あるいはない程度になっている」
「1号機、2号機、3号機とも、今のところ順調に注水が進み、冷却の効果が出ている」

原子炉が、12日のうちにメルトダウンを起こしていたことが国民に知らされるのは、後になってからだ。
12日朝、浪江町で交通整理などにあたる警官が、防護服を着用した。

「警官はなぜあんな格好をしているのか」
住民は不安を抱いた。

浪江町議会議長、吉田数博(65)は津島地区の警察駐在所を訪れ、「不安を与えるので防護服は着ないでほしい」と要請した。
吉田はいう。
「知らないのはわれわれだけだったんだ」

■防護服の男 (4) 殺人罪じゃないか

SPEEDI(スピーディ)という、コンピューター・シミュレーションがある。
政府が130億円を投じてつくっているシステムだ。
放射線量、地形、天候、風向きなどを入力すると、漏れた放射性物質がどこに流れるかを、たちまち割り出す。
3月12日、1号機で水素爆発が起こる2時間前、文部科学省所管の原子力安全技術センターが、そのシミュレーションを実施した。

放射性物質は、津島地区の方向に飛散していた。
しかし政府は、それを住民に告げなかった。

SPEEDIの結果は、福島県も知っていた。
12日夜には、東京の原子力安全技術センターに電話して、提供を求め、電子メールで受け取っていた。
しかし、それが活用されることはなく、メールはいつの間にか削除され、受け取った記録さえもうやむやになった。

3月15日に津島地区から避難した住民に、県からSPEEDIの結果が伝えられたのは、2カ月後の5月20日だった。
県議会で、この事実が問題となったためだ。

福島県の担当課長は5月20日、浪江町が役場機能を移していた二本松市の東和支所を、釈明に訪れた。
「これは殺人罪じゃないか」
町長の馬場有は、強く抗議した。
馬場によると、県の担当課長は涙を流しながら「すみませんでした」といい、SPEEDIの結果を伝えなかったことを謝ったという。

知らされなかったのは、SPEEDIの情報だけではない。
福島県は、事故翌日の3月12日早朝から、各地域の放射線量を計測している。

同日午前9時、浪江町酒井地区で毎時15マイクロシーベルト、高瀬地区では14マイクロシーベルト。
浪江町の2地点は、ほかの町と比べて、異常に高い数値を示した。
1号機水素爆発の6時間以上も前で、近くには大勢の避難民がいた。

これらの数値は、6月3日に経済産業省のHPに掲載された。
しかし、HPにびっしり並ぶ情報の数字の中に埋もれ、その重大さは見逃された。

8月末、浪江町の災害救援本部長、植田和夫にそれらの資料を見せると、植田は仰天した。
「こんなの初めて見た。なぜ国や県は教えてくれなかったのだろう」

菅野みずえはいう。
「私たちは、国から見捨てられたということでしょうか」  

■防護服の男 (5) 私、死んじゃうの?

菅野みずえの家にいた25人の人々は、その後どこに向かったのだろう。

その一人、谷田(やつだ)みさ子(62)はいま、愛知県春日井市の市営住宅で避難生活を送る。
みずえの遠い親戚だ。
同じ浪江町の小野田地区に家がある。
みずえの家からは約20キロ海寄りで、福島第一原発から10キロ以内の距離にある。

3月11日午後、自宅で地震に襲われた。
翌12日早朝、隣の双葉町に住む次女一家が「ここは危ないから逃げるのよ」と駆け込んできた。
朝9時、家を出た。

みずえの家がある津島方向に向かう国道114号は、すでに大渋滞。
国道6号に出て北に進み、南相馬市小高区の長女宅に向かう。
ここで、1号機の水素爆発を知り、さらに全員で津島を目指した。

みずえの家に着いたのは、夕方6時を回っていた。
他の避難者が、炊き出しの握り飯を食べ終わったところだった。

一日中走り回って疲れていたが、避難者の会議には出席した。
共同生活ルールのうち、使用済みトイレットペーパーを段ボール箱に捨てるよう提案したのは、みさ子だった。
以前メキシコ旅行をしたときの経験を思い出したからだ。

しかし、ほっとしたのもつかの間、白い防護服の男たちの警告を、みずえから聞かされた。
生後1カ月の赤ちゃんを抱えた次女一家7人と、長女一家4人を、夜中に逃がした。
翌13日夕、みさ子も発った。

行くあてはなかったが、「少しでも遠くに」と郡山市を目指す。
郡山市では、避難して来る人たちの放射能測定をしていた。
みさ子に測定器が向けられると、針が大きく振れた。
「私、死んじゃうの?」と、測定係に叫んだ。

その晩は、車で寝た。
15日朝、地震当時は相馬市にいた夫(54)と、携帯電話でようやく連絡が取れた。
会津若松市で合流し、新潟県経由で、22日、姉が暮らす春日井市に逃れた。

国や東京電力から、的確な指示が一切ないまま、12日間の逃避行だった。

「原発は安全」
これまで、そんな説明を、何度も聞いていた。
それを前提とした生活が、すべて崩れた。

しかし、原発のおかげで、住民が恩恵を受けてきたのは事実なのだ。
「原発だけ悪いなんて、私たちはいえないのよ」
みさ子はため息をつく。

■防護服の男 (6) ハエがたかっていた

谷田(やつだ)みさ子(62)は、浪江町で生まれ育った。
中学生のころ、東京電力が、福島第一原発づくりを始めた。
高校卒業後、上京して就職したが、1年半で浪江町に戻った。
そのあとは東電一色の生活だった。

結婚し、3人の子を育てながら、焼き鳥屋をやった。
客は、原発で働く作業員たちだった。
その後は、東電の社員寮に勤める。
昨年の夏まで10年間働いた。
食事をつくり、若い社員らに「やつだっち」と呼ばれて慕われた。
女子寮には、女子サッカーのなでしこジャパンで活躍した鮫島彩選手らがいた。
「みんないい子でかわいかったです」

子供たちの手が離れてからは、東電の管理職の寮に住み込んだ。

思い出すのは選挙の時の東電の力の入れようだ。
町長選挙や県議会議員選挙があると、寮の食堂が、東電幹部らの待機場所となった。
支援候補が当選すると、幹部はそろってお祝いに駆けつけた。
「電力会社は政治とがっちりつながっているんだな」と感心した。

これまでの人生の半分以上を東電とかかわってきた。
にもかかわらず、今度の事故では、東電から何の情報もなかった。
愛知県春日井市に避難してからは、いっそう情報が入らなくなった。
福島県の地元紙を郵送してもらい、隅から隅まで目を通す。

これから生活はどうなるのか。
補償はどうなるのか。
不安だらけだ。

6月、浪江町の家に一時帰宅した。
冷凍庫は地震でひっくり返ったままで、腐った食材にハエがたかっていた。

8月末、自分の車を引き取りに、再び福島に戻った。
夫が車を運転し、春日井市から高速道路で8時間かかった。
広野町の体育館で防護服に着替え、用意されたバスに乗り込んだ。
バスが止まると、首輪をつけた2匹の犬が、足元に寄ってきた。
途中、道ばたで、猫が2匹死んでいるのを見た。

「一歩間違えたら、私たちがああなっていたのかな」

事故後、長女は郡山に、次女は新潟に、家族は散り散りになっている。
9月、福島県の仮設住宅に入居を申し込んだ。
「福島は何十年も暮らした土地ですから。戻りたい」
涙がこぼれた。  

■防護服の男 (7) 早く東京へ来なさい

東京に住む娘の携帯電話の指示で、転々と避難を続けた者もいた。
菅野みずえの家に避難した、門馬洋(もんま・ひろし)(67)と昌子(しょうこ)(68)の夫婦だ。

自宅は、浪江町の権現堂地区で、原発まで10キロ内。
3月12日朝、町の防災無線が「津島に逃げてください」と避難を呼びかけた。
車で、知り合いのみずえの家に避難した。

菅野家には、昼前に着いた。
昌子はみずえの炊き出しを手伝い、お握りを握った。
夕食後、25人の避難民たちが、自己紹介しあった。
知り合いが何人もいた。

みずえから、白い防護服の男たちの話を聞かされたときは、夫婦はずるずる居残った。
しかし、翌13日朝、再びみずえから逃げるようにいわれ、昼前に菅野家を出発した。

とにかく北へ逃げようと、南相馬市を目指した。
コンビニも商店も閉まっていた。
レストランを見つけた。
納豆定食が残っていたので、それを食べた。
3軒のホテルに断られ、ようやく見つけたホテルに泊まった。

14日夜、福島空港から飛行機に乗り、15日に東京の長女と合流した。
長女の真理子(36)は地震のあと、両親の携帯を呼び続けた。
11日の地震直後に、一度通じただけで連絡が途絶える。
あとはメールだけだった。

しかし、メールの返信も途絶えた、12日の午前8時43分。
「お父さんとお母さんの無事を、神様にお祈りしています」

テレビやインターネットで、原発事故の新しい情報を必死で探し、両親に送り続けた。
1号機が水素爆発した12日の午後9時。
真理子は、テレビで専門家が「大丈夫」、と言っているのを聞いた。
「爆発は外壁だけで、放射能をまき散らすものではなかったと判明」
そんなメールを送った。
大変な誤りだった。

両親が、南相馬市に再避難した13日には、「女川原発まで放射能が飛んでいる。そこも危ない。東京に来なさい」

そして14日の正午。
「3号機が11時半に爆発した。早く東京へ」
父は「そこまで行かなくてもいいじゃないか」と返してきた。
真理子は「とにかく早く来なさい!」と叱った。

責任のある人たちは、だれも両親を助けてくれようとしなかった。
真理子にはその不信感だけが残る。

■防護服の男 (8) 「ふるさと」歌えない

菅野みずえの家に避難した門馬洋(67)は、元高校教師だ。
福島第一原発がつくられた40年前から、反原発運動にかかわっていた。
当時住んでいた、楢葉町(ならはまち)の町営住宅に、住民3人が集まって始めた運動だ。
県知事や町長らに、危険性を訴え続けた。
東京電力とは、数年前から毎月1回交渉し、3月22日も交渉が予定されていた。

原告404人で、隣の福島第二原発について裁判を起こしたが、負けた。
そのとき、仙台高裁の裁判長が述べた言葉を、今もはっきり覚えている。

「反対ばかりしていないで、落ち着いて考える必要がある。原発をやめるわけにはいかないだろうから」

それから21年。
原発は安全だという幻想は、あっけなく崩壊した。

「東京電力の想定がいかに甘いか。そのために多くの人に、どれだけの被害を与えたか。~いったいどう責任を取るつもりなのか」

しかし、浪江町が今回の事故で、「殺人行為だ」と、国や東京電力を非難していることについても、同様に違和感がある。
浪江町にも、東北電力の原発建設計画が、40年前からあった。
浪江町議会が、誘致を求めていたものだった。
昨年、町内会の会合で、町議が洋を見ながらいった。
「原発で浪江町の未来は明るくなる。門馬先生は反対でしょうが……」

7月に一時帰宅したとき、線量を測った。
家の近くで、毎時4マイクロシーベルトあった。

畑には、大きな柿の木がある。
長女の真理子(36)が生まれたときに、植えたものだ。
300個以上の実をつけた年もあった。
「もう実がなっても食べられませんね。汚染されてしまったから」

30年ほど前、町内の体育館を借り、東京の劇団を呼んで、放射能漏れ事故をテーマにした劇をやったことがあった。
原発事故で町民が逃げ惑う、というストーリーだった。
それが現実になった。

夫婦は、東京都北区の団地に、身を落ち着けている。
家賃は、13万5千円と高いが、長女の家の近くに住むため、そこに決めた。
東京電力からもらった仮払金100万円を、家賃の支払いにあてる。

洋は、福島にいたころから、合唱が好きだった。
7月、北区で、合唱団の催しがあるのを知り、妻の昌子(68)と参加してみた。
兎(うさぎ)追いしかの山、の「故郷(ふるさと)」を歌った。
洋も昌子も途中で歌えなくなった。

■防護服の男 (9)

浪江町の、赤宇木(あこうぎ)地区に住む、三瓶(さんぺい)ヤスコ(77)は、隣の飯舘村から嫁いで55年になる。
菅野みずえとは、公民館の民謡サークル仲間だ。

ヤスコは8月初めまで、細い山道を上った一軒家に1人で住んでいた。
地震直後は、神奈川県の孫娘の1DKのアパートに、富岡町の長女と孫息子の3人で避難した。
しかし、隣室の食事の音まで聞こえる。
周りにも気を使う。
「この年になると都会の生活は合わない」
犬と猫のことも気になり、4月末に赤宇木に戻った。

そのころは、まだ地区に数世帯が残っていた。
そのうち1軒減り、2軒減り、誰もいなくなった。
警察が30キロ付近で通行規制を始めると、車も通らなくなった。
さみしくなった。
夜は真っ暗だ。
何も考えないように思っても手が震え、食べ物がつかえた。

気晴らしに近くをドライブした。
しかし、帰り道はどの家も明かりはない。
山道を落ちても、だれも助けにきてくれないと思うと、ドライブが怖くなった。

日曜になると、背中に「文部科学省」と書かれた作業服の男たちが、地区に放射線量を計測にきた。
ヤスコは、車がくると出て行き、「今日はなんぼですか」と尋ねる。
「15マイクロシーベルトだよ」
男は気軽に教えてくれた。
「私の家も測ってくれんかね」

別の日、男は家の周辺を測ってくれた。
家の外で10マイクロシーベルト、居間で5.5マイクロシーベルトあった。
平常値をはるかに上回る量だ。
男はそれを紙に書いてヤスコに渡した。

6月初めのある日曜日、男がポツリと言った。
「今だからいうけど、ここは初め100マイクロシーベルトを超していたんだ。そのときは言えなかった。すまなかった」

その後も、男は「参考にして」といって、各地域の放射線量が書かれた地図を、ヤスコにくれた。
だが、ヤスコは8月初めまで赤宇木にとどまる。
「放射能は目に見えるわけでないし、数値を聞いてもよく分からなかったのよ」

8月初め、二本松市の仮設住宅に当たったため、赤宇木を出た。
しかし、今も2日おきに、約25キロ離れた自宅まで車で通う。
犬と猫にえさをやるためだ。

■防護服の男 (10) 口止めされた警察官

関場和代(52)は3月14日、会津若松市の親類宅に避難した。
家は、菅野みずえの家に近い、浪江町南津島にあった。

その後も、避難指示がないため4月2日、ひとまず自宅に戻った。
数日して、家の前に自衛隊のジープがとまり、隊員が降りてきた。
安否確認で来たという。

そのころ、浪江町の放射線量が高いことが報道されていた。
それが心配で、おそるおそる尋ねた。
「この辺の線量はどのくらいですか」
隊員はにっこり笑い、ここは大丈夫だと答えた。
「私たちは線量計を付けています。1日にどのくらい線量を浴びたか分かるんですよ」
和代はそれで安心した。
家に閉じこもるのをやめ、近所に出かけていった。

4月17日。
近くの橋の上にいると、男が近づいてきた。
フリージャーナリストの豊田直巳(55)だった。
和代が、自宅の線量を測ってほしいと頼んだ。
豊田は、敷地のあちこちを測りはじめた。

玄関の雨どいの下を測ったとき、豊田が「ワッ、これは大変だ!」と叫んで立ち上がった。
ためらう豊田に、和代は「本当のこといってください」と頼んだ。
「2時間いたら、1ミリ吸います」と、豊田は答えた。

豊田によると、そのときの線量は、毎時500マイクロシーベルトを超えていた。
2時間いただけで、年間許容量の1ミリシーベルトを超える値だ。

具体的な数字を初めて聞かされ、大変なことだと初めて自覚した。
和代はあわてて身支度し、豊田に見送られて家を飛び出した。

数日後、ネコを引き取りに、再び家に帰った。
警視庁のパトカーが敷地に入ってきた。
「ここって高かったんですね」と、30代ぐらいの警察官に聞いてみた。

「そうなんです、高いですよ。でも政府から止められていていえなかったんです」
警察官はそう答えた。
和代はびっくりした。ジープの自衛官がいったことは何だったのか。

「もし自分の家族だったら、同じことがいえますか。真っ先に逃がすでしょう。私らのことは、しょせんひとごとなんですかね」

7月、中国の高速鉄道事故で、証拠隠しが発覚した。
日本のメディアは、中国政府の対応を厳しく批判した。
和代は腹が立ってくる。

「日本だって同じじゃないの」

■防護服の男 (11) あの2人のおかげで

菅野みずえの家に避難した25人は、「白い防護服の男」の情報とみずえの判断で、それぞれ再避難し、危険な状況から逃げることができた。

大量の放射性物質が飛び散り、住民が被曝(ひばく)するかもしれない、緊急の時期だった。 しかし、政府も東京電力も、それを住民に教えなかった。
しかし25人は、混乱を起こすこともなく、冷静に動いている。

みずえは今、福島市に近い、桑折町(こおりまち)の仮設住宅で暮らす。

「ほら、見てください」
みずえは空き地で遊ぶ子どもたちを指さす。
「あんな小さな子が、避難生活の苦労を背負って、これから生きていくんですよ。もし被曝していたら……」

それにしても、あの白い防護服の男たちは、一体だれだったのか。
みずえは今も考える。

そのころ福島県内は、文部科学省や福島県、日本原子力研究開発機構、東京電力、東北電力などの計測車が走り回っていた。

例えば、新潟県からの応援車もきていた。
3月12日夕のちょうどその時刻、津島地区を通っている。

新潟県の職員2人は、原発事故対応の支援のため、ワゴン車に乗って福島県に入った。
114号を浪江町に進み、津島地区を通った。
午後4時ごろ、その先の川房地区で、警官に止められて引き返している。

その職員に話を聞くことができた。
ただ、内部被曝してしまったので、名前が出るのは困る、とのことだった。

職員によると、当時、測定器は激しく鳴りっぱなしで、焦っていた。
津島地区を通ったとき、車がたくさん止まっていたので、避難所だと思った。

「防護服? いいえ、着ていませんでした。車を降りてもいません」

14日未明には、放射線医学総合研究所のモニタリングカーが、津島地区を通過している。 まだ、大勢の避難民がいたころだ。
車には測定器などを積み込んでいたが、「資材を運ぶのが目的だった。放射線量は測っていない」(広報課)という。

みずえが会った2人は、そうした計測チームの一つだった可能性が高い。

「あの2人の警告のおかげで逃げられた。それをなぜ、国や東京電力は、組織としてしてくれなかったのだろうか。もっと多くの人が逃げることができたのに」


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Last-modified: 2011-10-15 (土) 19:56:36 (1988d)